ねえ、目を開けて。
砂に横たわった愛しいあたしの半身。
せっかく会えたのに、またあたしを一人にするの?
「美衣」
名前を呼びながら、あたしはそっと姉の唇に自分のそれを重ねた。
啄み吸って、滑らかな舌を口内に侵入させる。まだ温もりのあるそれは舌先に微かな甘さを伝えてくる。
何度息を吹き込んでも、心音は聞こえない。白目を剥いて泡を吹き、あたしと同じ顔を恐怖に醜く歪めながら、彼女はもう二度と起き上がらない。
ねえ、美衣。
どうしてあたしたち、こんなことになっちゃったのかな。
二枚貝のように姉の身体にぴったりと寄り添って、唇を重ねたままで。
そのまましばらくじっとしていた。産まれる前に母親の腹の中で、多分こうしていたように。
次にあたしが気付いたのは、美衣をこのままにしておいたら、いずれ誰かに発見されて火葬されてしまうという事実だった。
あたしがこんな体になってしまったからには、双子の姉である美衣も、なってしまうのかも知れない。
あたしと同じ化け物に───液状人間に。
甘い期待が胸に湧き上がる。美衣が蘇ってくれればあたしは一人ではなくなる。肉親と二人で、永遠に長い時を生きられるのだ。
───でも。
別の光景が脳裏をよぎった。
あたしの反対を押し切って沖縄の男と結婚し、あたしのことなど忘れたかのように幸せに暮らしていた美衣。
そんな彼女が、果たして液状人間としての復活を喜ぶだろうか?
(いやぁっ、化け物!こっちに来ないでえっ!)
先程の悲痛な叫びが、耳を離れない。
いやだ、見たくない。
あたしを拒否し、化け物と罵る美衣なんて、もう二度と見たくない……!
気付いた時には、口が大きく開き、姉の頭にかぶりついていた。
そのまま立ち上がると、重い頭に反して軽い両足が、しばらくじたばたと宙を泳いでいた。
───が。
もはや人とは違ってしまったあたしの口は、そのままごくん、と姉の体を丸呑みする。
喉が凹むような感覚を残しただけで、姉の体はすっぽりとあたしの中におさまった。
美衣は確かに、ここにいる。胃液で溶けてしまっても、消化が終わればあたしの血や肉の一部となり、あたしの中で永遠に生き続ける。
そう、これで良かったのだ。
美衣の死体が見つかれば旦那が悲しむ。
双子の愛娘を両方とも失ったうちの両親だってもっと悲しむ。
これで、いい。
後は、あたしが美衣の代わりに人間として生きれば、誰も悲しまない。『入れ替わり』ならお手のものだ。
満腹になった腹を揺すりながら、あたしは美衣の暮らす家へと歩き出す。
歩くたびに胃の中の姉がたぷたぷと揺れ動き、とても優しい気分になった。
※
恋人に求める条件は?
と聞かれたら、普通の女の子は何と答えるだろう。
顔がカッコいいこと?頭がいいこと?スポーツが出来ること?
もちろんそれだって大事だ。
けれどあたしたち──伊藤由布と美衣にとっては、何よりも譲れない条件があった。
「おはよう、由布。こないだ借りたいって言ってたレコード持ってきたわよ」
「あたしは美衣なんだけど」
「ええ!?ご、ごめん、間違えたわ」
「美衣、次は教室移動だよ。何してるの?」
「あたしは由布だよ」
「あー、また間違えた。あんたたちってホント何もかもそっくりよね、顔も声も性格も」
「どうして高校別々にしなかったのよ。あたしなんて、今年に入って三回は間違えてるわ」
「せめて髪型とか変えてくれない?制服だとマジで見抜くの無理だから」
産まれた時から、あたしたちは周囲に気を遣わないといけなかった。
漫画やドラマに出てくる双子は、片方が明るく片方が大人しく、また片方が成績優秀で片方が運動神経抜群、などと見事に個性が分かれているが、現実は違う。
あたしたちは性格も趣味も成績も、何もかもが「同じ」レベルだったのだ。
好きで双子に産まれたわけでもないのに、周りの人たちは、あたしたちを見分ける努力すらしないで、あたしたちだけに努力を強制してくる。
紛らわしいから、髪型も服装も別々にするべきだ。学校も別のところに通うべきだ。
大きなお世話以外の何物でもない。双子に生まれたばっかりに、あたしたちはどちらかが我慢をして、好きでもない趣味の服を着せられ、好きでもない学校に通わなければいけないの?
「ねえ由布。結婚するなら、絶対にあたしたちを見間違えない人にしようね」
「そうね美衣。普通は、好きな人の顔を間違えたりしないはずだもんね」
だから、ボーイフレンドに求める条件はただ一つ。
『あたしたちの見分けがつくこと』だった。
※
異性と肌を重ねるのは嫌いじゃない。
あたしの体、綺麗だと言ってもらえるのは嬉しかったし、年上の男性ならなおさら自信が付いた。
今度の相手は三つ年上の大学生。月に二、三回デートして、そろそろ半年になる。やりたそうだったから食事の後にホテルに行った。
「なあ美衣ちゃん。俺たち本格的に付き合わないか」
煙草に火をつけながら、彼はそんなふざけたことを言う。
すっかり気持ちが醒めていたあたしは、余韻に浸る彼をよそに、さっさとブラをつけて帰り支度をしていた。
「うーん、それはちょっと。あなた『条件』満たしてないんだもの」
「え……?」
断られるとは夢にも思わなかったらしい。煙の向こうに見える間抜け面に、あたしは笑い出しそうになった。
「あたしに双子の姉がいるの知ってるでしょう。先日紹介した」
「あ、ああ……」
「そっちが美衣で、あたしは由布なの。彼女を間違えるような人とは付き合えないわ」
彼はしばらく馬鹿のように口を空けていたが、やがてその顔は見る見るうちに真っ赤に染まっていった。
あたしたちは誰もが認める美少女だから、言い寄って来る相手には事欠かない。
でも、付き合い始めてこういうテストをしたら、まず大抵の男は激怒するのだ。
そりゃあ、騙したあたしたちだって悪いかも知れない。でも、「大好きだよ」なんて言いながら、他の女の上でハアハア腰を振っている自分はどうなの。
間違えたからって、切れて暴力ってのはどうなの。その前にまず自分を恥じなさいよ。
「おはよう。……由布、また駄目だったの?」
頬に絆創膏を貼って登校したあたしを、美衣が落胆の目で見つめる。
両親が共働きで家に帰ってこない日も多いため、あたしたちはここぞとばかりに夜遊びを繰り返していた。
外泊した日は家に寄らずに、そのまま学校に向かうことも多い。なので、美衣と顔を合わせるのは今日初めてというわけだ。
「おはよう。……うん、別れて来てあげたわよ。修羅場だったわ」
まさか灰皿が飛んでくるとは思わなかった。あたしはまだ痛む頬を押さえつつ、教室の椅子に腰かける姉の美衣を見下ろす。
「今度こそはと思ったんだけどねー。やっぱり男って誰でも同じかも」
新しい相手と付き合う前に、まずあたしたちが双子であることを教えて、顔合わせをしておく。
付き合っていくうちに相手は何故か、聞いてもいないのに『キミ達は本当にそっくりだけど、俺は由布ちゃんの方が好きだよ』とか、『美衣ちゃんの方が大人しめで、由布ちゃんの方が少し活発かな?俺にはちゃんと見分けがつくよ』などと血迷ったことを言い出すのだ。
もうその時点でおかしくて仕方がない。どうして誰も彼も、あたしたちの見分けがつくなどと嘘を言い張るのだろうか。
こういう男は、きっとクイズ番組でも『俺は絶対1番が正解だと思うな』と言っておきながら、いざ正解が2番だと、『あー、やっぱり2番だと思ってたんだよ』と抜かすのだろう。
間違えたなら間違えた、わからないならわからないと、正直に言えばいいのだ。そんな素直な男性だったら、あたしたちだって何も、好き好んで意地悪などしない。
現にクラスの女子は、あたしたちを見分けられなくても、「間違えちゃった」と笑って済ませる。あたしたちが意図的に入れ替わっていたずらしても、「もー、勘弁してよ」と許してくれる。
なのになぜ、男という生き物は、嘘をついて見栄を張って、自分の間違いを素直に認められないのか。いちいち切れて暴力に訴えてくるのか。
あたしたちは不思議で仕方がなかった。このテーマを夏休みの自由研究にしたら、けっこういい線いくんじゃないかと思われる。
「たぶん『双子の見分けがつくかっこいい俺』に酔いたいんでしょうね。ついでに、『女ごときが俺様を騙すなんて許せない』って言うアレでしょ。早めに本性わかって良かったわ」
「だよね。暴力男とは結婚できないし」
あたしたちを、あるいは不良娘と思う人もいるだろう。ちょっと可愛いからっていい気になって、男を選び放題、遊び放題の淫乱双子と。
でも、その辺のギャルと一緒にして欲しくない。あたしたちは遊びのためにセックスしているわけじゃない。未来の結婚相手を探しているのだから。
妻を他の女と間違える夫と、一生添い遂げることなんてできない。でもあたしたちを見分けられる男性なんて、もしかしたら一生現れないかも知れない。双子などと言う、普通の女の子より重いハンデを背負っている分、厳しい道のりだと判っていたから、なるべく早く行動を起こす必要があった。
「……るさい」
くぐもった声が美衣の背後から聞こえて来た。
そちらを見ると、机に顔を伏せた男子の頭が目に入った。どうやら美衣の後ろの席にいる男子が、あたしたちの話し声がうるさいと主張したらしい。
「あ、ごめんね比嘉くん。やかましかった?」
美衣に比嘉くんと呼ばれた男子はまだ寝ぼけているのか、二・三度いやいやをするように頭を振ると、再び動かなくなった。
「由布、もう自分の教室に戻った方がいいんじゃない?そろそろチャイム鳴るわよ」
「うん……」
頷きながらも、あたしは比嘉くんの形のいい頭頂部から目が離せなかった。
比嘉石矢くんは、一か月前に沖縄から転入してきた人らしい。
色は黒く痩せ細っていて、顔の肉も薄いから、目だけがぎょろっと飛び出たみたいになってて、自分でもそれを気にしているのか常に伏し目がちな感じだ。
休み時間は大抵一人で寝ていて、前の席の美衣とも殆ど話さない。沖縄と言ったら、十数年前にようやくアメリカから日本に返還された、文化の異なる南の島。常夏の太陽みたいなイメージしかなかったから、彼のような人間もいるのだと意外に思った。
「なによ由布、今度は比嘉くんが気になるの?傷も癒えないうちに元気ねえ」
あたしの気持ちは美衣にはお見通しだった。
女子トイレで会った時、にやにやしながら皮肉を言われた。今にして思えば、あたしたちがお相手探し躍起になっていたのは、自分たちの寿命がそう長くないことを、本能で知っていたからかもしれない。
「美衣、次の授業、替わってくれない?」
「ええ?」
あたしの突然の申し出に、美衣はさすがに驚いていた。
学校で『入れ替わりごっこ』はたまにやっていたが、前日の打ち合わせもなしにこんなことを言いだすのは、初めてだったからだ。
「あんた、その顔じゃいくらなんでもすぐばれるじゃない……」
「こんなもんメイクすりゃごまかせるわよ」
あたしは洗面台の前で絆創膏を剥がし、痛いのを我慢して青痣の上にコンシーラーを塗りまくった。
「比嘉くんともっと話がしたいの。何かこう、キュンときたのよ。お願い」
「全く、懲りないんだから……」
かくして、美衣はあたしの教室で由布として授業を受け、あたしは今美衣として、比嘉くんの前の席にいる。
授業なんて、適当に聞き流していてもそれなりの成績は取れる。両親が可愛い娘たちを放置していられるのも、あたしたちが成績を常に上位にキープしているからだ。
それより今、気になるのはこの男子だ。背中にすぴすぴと規則正しい寝息を感じる。教科書を盾にして、また居眠りをしているらしい。授業中も休み時間も、一体どれだけ寝れば気が済むのか。
「比嘉くん、比嘉くん。起きないと先生に怒られるよ」
声をかけるが、彼は目を覚ます様子は無い。
「では、19行目からの文章を、比嘉石矢、訳せ」
言っているそばから、比嘉くんが指名された。あたしは座り直すふりをして椅子の背をガタンガタンと彼の机に当てた。彼はまだ起きない。
「聞こえなかったのか、比嘉!19行目!」
痺れを切らした英語教師が怒声とともに黒板を叩く。それで、ようやく比嘉くんはのっそりと立ち上がった。
眠い目をこすっている彼に、教師は怒り心頭と言った感じだ。あたしは素早くノートに和訳を書いて破り、比嘉くんに渡した。
(これ読んで。多分合ってると思うから)
「……?」
比嘉くんは怪訝そうな顔をしていたが、やがて言われた通りに、あたしに渡されたノートの切れ端の文字を音読した。
「『彼女はより多くのビスケットを望んでいたが、彼はその要求に応えることが出来なかった』」
「正解」
悔しそうに教師は言い、おお、と教室がどよめく。
「では次、22行目……」
比嘉くんは罰の悪そうな顔をして着席すると、あたしをじっと見た。
「……助かった」
「どういたしまして」
休み時間、比嘉くんがまた寝ようとしたので、「ちょっと話さない?」と引き止めた。
彼は迷惑そうな顔をしていたけど(そんな反応も新鮮だった。男子はたいていあたしと話したがる)、さっきのことがあるので断れない様子で、しぶしぶあたしの話に付き合ってくれた。
「比嘉くんって方言は使わないの?沖縄の人って語尾に『さぁ』つけるんでしょ」
「土地による。爺さん婆さんはともかく、若者はあんまり使わないな」
「普段はどんな音楽聞くの?沖縄民謡?」
「馬鹿にするな。チェッカーズくらい聞く」
「えー、意外」
「……伊藤、なんだか今日は感じが違わないか?」
「えっ」
どきりとした。まさか、早くも見抜かれてる?
だとしたらむしろ好都合、まっ先にあたしのお婿さん候補だ。未だかつて、制服姿のあたしと美衣を見分けられた人間はいないのだから。
「そ、そうかな?どの辺が?」
痣はメイクで隠したし、髪型も美衣とお揃いにした。どこもおかしくはないはずだけど。
「今日に限って、やたら俺に親切だからさ。顔のいい奴にしか興味ないだろう、お前は」
「そんなことないわよ!」
むっとしてあたしは答える。あたしたちが男を選ぶ優先順位は、まずあたしたちの見分けがつくこと。続いて知性、性格、容姿の順だ。
それに比嘉くんだって、言うほど外見は悪くない。男の顔って、至近距離で見るとニキビや髭の剃り跡だらけってことが多いんだけど、沖縄出身の比嘉くんは色黒のせいか、毛穴がほとんど目立たない。
痩せている割には顔の艶もいいし、黒糖饅頭みたいな肌だと思った。目も、黒飴みたいな深い色をしてる。頬にキスしたら、黒砂糖の味がするんだろうか。じゃあ唇は、パイナップルの味……?
「ねえ比嘉くん、これ小説の中の話なんだけどね」
あたしが話を振ると、彼は気だるげにあたしを見た。
「はあ?」
「あるところに双子の姉妹がいたの。親も区別がつかないくらいそっくりなもんだから、二人ともしょっちゅう名前を間違えられて、だから結婚するなら自分たちを見分けられる人がいいって考えてたの」
「……」
比嘉くんは黙っている。
小説の中の話ではないと気付いているのかも知れないが、敢えて突っ込まないのは、単にあたしたちに興味がないせいだろう。
「で、姉にボーイフレンドが出来た時、妹は姉になりすまして初体験したんだけど、終わってから種明かししたら、彼が怒って暴力を振るってきたの。こういうのどう思う?酷いわよね?」
あたしは身を乗り出し、彼に同意を求める。けれど比嘉くんは、仏頂面のままでこう言ったのだ。
「男が怒るのは当然だろう。それは強姦じゃないのか」
「え?」
意外な反応に、あたしは瞬きした。
「男女を逆にして考えてみろよ。女がボーイフレンドだと思ってセックスしたら、双子の弟だったんだぞ。詐欺罪と強姦罪で訴えられてもおかしくないだろう」
「……」
あたしは呆気にとられる。まさか、そんなことは思ってもいなかった。
「何の小説かは知らないが、その双子の姉妹は最低だな。殴る蹴る程度じゃ甘すぎる。二人ともくたばっちまえばいいのに」
よりにもよって本人の目の前で物騒なことを吐き捨てて、比嘉くんは再び眠りにつこうとする。
あたしは、その椰子の実のような丸い頭を、前方から鷲掴みした。
「比嘉くん!」
「な、なんだよ」
うろたえた瞳があたしを見る。それこそ、暴力でも振るわれるのかと警戒している顔だ。
あたしは満面の笑みで、彼の手を握り強く揺さぶった。
「言われて見ればその通りだわ。あたし、自分のことばっかりで相手のこと全然考えてなかった。強姦だなんてそんな発想は全然なかったわ、ありがとう気づかせてくれて!」
「……あ、ああ」
目を輝かせながら手を握るあたしに、比嘉くんは露骨に戸惑っていた。
彼は恐らく、あたしを不快にさせるために言ったのだろう。だけど、あたしたち双子は、良くも悪くも非常に素直な性格だった。
これまで多くの男と付き合いながらも、あまり男の恨みを買うことがなかったのは、遠慮なく物を言う率直さと、自分が悪いと思ったらすぐに謝るストレートさが理由だったのかもしれない。
学校が終わると、あたしはさっそく、今まで別れた男たちに電話で連絡を取った。もちろん会ってくれない人もいたけど、数日かけて、一人ひとりに頭を下げて、強姦してごめんなさいと言った。
ところが彼らは一様に面食らったような顔をし、そして「そういうことで怒ってるんじゃない」とまたもや逆上してきた。
君たちなんて顔も体も似たようなものなんだから、どちらを抱いても同じこと。それよりも、騙していたこと、侮辱したことを謝って欲しい──ということだった。
彼らの中に一人も、あたしに強姦されたと嘆いている男はいなかった。つまり、あの行為が強姦だと言うのは、比嘉くん独自の発想だったと言うわけだ。
「……ね?比嘉くんって面白いでしょ?」
事の顛末を美衣に報告すると、あたしと同じ思想を持つ美衣も、興味深げに頷いた。
「なるほど、今までいなかったタイプよね。由布が好きになるのもわかるわ」
女が男に殴られたとなれば、どんな理由があろうが女に手を上げるのは良くない、と責められるのが当たり前の世の中で、比嘉くんはまず「殴られる女に原因がある」と考える人だった。
クラスで孤立しているのも、自分が暗いからではなく、クラスの連中がやかましくて合わないから。彼女を作らないのも、もてないからではなく、自分に相応しい女性が現れないから。
とにかく自分が圧倒的に被害者で、他人が全て悪いと考えるような人で、それがあたしの眼には妙に新鮮に映ったのだ。
単に性格が悪いだけだろうって?
もちろん、そういう人間はいくらでもいる。でも、普通は嫌われるのが怖くて、おぞましい本心を隠そうとする。心の底では女が悪いと考えていても、女に嫌われたくないからと、表面上は女に媚びる男の何と多いことか。
少なくとも比嘉くんは「嘘」はついていない。あたしたち双子の見分けがつくよ、そのくらい君が好きだよ、なんて、出鱈目を口にしたりはしない。わからなければ素直に「知るかよ」「わかんねえよ」と言うし、自分を大きく見せようという気が一切ないのだ。ある意味誠実な男ではないだろうか。
「で、どうするの?比嘉くんに告白する?」
美衣に問いかけられて、あたしははたと気づいた。
そうか、好きになったら告白が必要なのか。今まで告白されてばかりだったから忘れていた。
「でも比嘉くん、女に興味ないみたいだし……きっかけがつかめないわ」
彼のことを好きだと自覚したら、何だか急に恥ずかしくなってきた。セックスなんて何度もしてるのに、比嘉くんとそういうことをすると考えたら胸が高鳴りだす。
そんなあたしを見て、美衣はちろりと舌なめずりした。
「じゃあ、あたしに最初に貸してよ。沖縄の味ってどんなのか、一度試してみたかったの」
「え」
「なに驚いてんの。こないだ別れたあたしのボーイフレンドは、由布が引導渡したんだし、今度はあたしの番でしょ?」
相手を試すためのセックス行為は、交代で行っていた。でないと、いつもあたしだけが一方的に男に怒られる役割になってしまう。
でも、今回ばかりは……。
「だ、だめ!」
思わず大きな声を上げてしまう。
「比嘉くんの初めてはあたしが奪うんだから!美衣は手を出さないで!」
友達さえいなさそうな比嘉くんに、彼女がいるとは思えない。あの反応からして、彼は間違いなく童貞だ。
思いもよらなかっただろうあたしの反応に、美衣は目をまん丸にした。
「……あんた、もしかしてマジだったの?」
そうかも知れない。徐々に赤くなる頬を隠すために、あたしは俯いた。
あたしたちは、仲の良い双子の姉妹。今までボーイフレンドだって共有してきたのに、そのことに何の抵抗も持たなかったのに、あんな美形でも何でもない普通の男子を、美衣にも渡したくないなんて思うのは初めてだった。
それなら応援するわよ、と美衣は言ってくれた。その後も何度か『入れ替わり』を行い、本来は別のクラスであるはずの比嘉くんとの会話を楽しんだ。
会話の中で、彼が卒業後も東京に残ることを聞き出してひと安心したのだが、結局彼とはそれ以来、何の進展もせずに時が流れて行った。
このあたしが、好きな男に告白もできないほど臆病だなんて思わなかった。
だって彼を騙してたんだから。クラスメイトの伊藤美衣だと嘘をついて、彼と会話をしているのだから。
今さら伊藤由布だなんて名乗れるわけもない。ましてや、あんな卑猥な話を聞かせておきながら、好きですなんて。
信じて貰えないどころか、罵倒されるのが目に見えている。
※
無事に大学に合格した、高校三年生の春。
あたしたちは、沖縄に卒業旅行に出かけた。
「美衣、おなかすいた。本当にこの道で合ってるの?」
「大丈夫よ……あ、あったあった。あの店だわ」
蔦の絡まる石垣にかけられた、『やさちゅら』という木の看板が目に入る。
沖縄では珍しい菜食専門のレストランと言うことで、美衣がぜひ行ってみたいと言い出したのだ。
「こんにちはー。予約した伊藤ですけど」
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
店はそれなりに繁盛しているようだった。米軍基地が近いせいか、アメリカ人っぽいの姿もちらほら見られる。
30代くらいの男が、笑顔であたしたちに水とおしぼりを運んでくる。
「いらっしゃいませ」
「あ……どうも」
美衣はメニューも見ずに、その男の顔を凝視していた。
「どうしたの美衣」
水を置いて立ち去る男の後ろ姿に見惚れている美衣に、あたしは嫌な予感がしていた。
「……ねえ由布、今の人どう思う?」
「どう思うも何も、至って普通の男でしょ。比嘉くんが50点なら、あれは40点てところね」
「えー、落ち着きがあっていいじゃん。あたし、今回はあの人にするわ」
そう、恐ろしいことに美衣は、旅行先で出会った男に一目惚れをしたのだ。
「やめときなさいよ……」
と言っているのに、美衣は注文ついでに彼を引きとめて、色々と質問攻めにしていた。
「いつからこのお店を?」
「三年前かな。元は居酒屋だったんだけど、父の後を継いで改装したんだ」
「野菜専門のお店って貴重ですよね。失礼ですが、やっていけるんですか?」
「海外の人はベジタリアンも多いからね、いい常連さんだよ。英語はまだ勉強中だけど」
「あたしたち、英語は大の得意なんです。日常的な英会話くらいは出来ますよ!ねっ由布」
「……そうね」
「このお店気に入ったし、あたし、夏休みの間だけでもアルバイトに来ようかしら」
「ははは、お嬢さんたちみたいな可愛い子なら大歓迎ですよ」
相手は恩納仁といい、当時30歳の冴えない男だった。高校卒業したてのあたしたちピチピチギャルとでは、どう考えても釣り合いが取れない。
「30なんておっさんじゃない。おまけに遠距離で自営なんて……どうしちゃったのよ、美衣!」
反対しながらも、あたしは半ば諦めに近い感情を抱いていた。あたしだって人のことは言えない。
恋愛っていうのは条件じゃないんだ。本当に好きになってしまえば、相手が不細工だろうがおじさんだろうが関係ない。あたしたちを見分けられなくても。
美衣は東京に帰ってからも、相手にたびたび手紙を出していた。当時まだ、携帯電話は普及していなかったから、メールのやり取りなんて出来なかった。
恩納仁からはすぐに返事が来ていた。そりゃあそうだろう、30男が幸運にも東京の美少女に好意を寄せられ、しかも相手は東京を出て離島に嫁いでも構わないなどと言っているのだから。今頃小躍りして、この機を逃すまいと必死になっているに違いない。
楽しい文通生活を送っている美衣とは対照的に、あたしの心は高校時代に置き去りのままだった。
卒業して半年近く経っていた。比嘉くんの東京の住まいや沖縄の実家はわかっているけれど、自分から連絡を取る勇気がない。
大学には魅力的な男もいたけれど、彼らとデートしていてもつまらない。休み時間に、比嘉くんとたわいもない話をしている時が、一番楽しかった……。
「由布、聞いて!恩納さんとお付き合いできることになったの!」
あたしの気持ちも知らず、美衣は着実に、恩納仁との距離を縮めつつあった。
妬んでいたわけではないが、どうにもうまく話が運び過ぎる。相手は年の離れたオヤジ、若い子なら誰でも良かったのではないか、と姉を案ずる気持ちが芽生えるのは当然だろう。
「……恩納さんには『テスト』しなくていいの?」
鼻歌を歌いながら彼に会いに行く準備をしている姉に、あたしはそう提案した。
「え、なあに?」
「だから、いつものテストよ。あたしたちが見分けられるかどうかの」
美衣はトランクを閉じ、困ったように笑った。
「そういうの、そろそろやめない?男の人の心を試すなんて、やっぱりいけないことよ」
「今さらそんな……!」
比嘉くんに叱られて以来セックスはしていなかったが、デート中に入れ替わって男の反応を見るテストは、定期的に続けていた。美衣はそれすらもうやめようと言い出す。
「別に、あたしたちが見分けられなくたっていいじゃない。どうせ結婚すれば別々の場所に住むようになるんだし、そうすれば間違えられることもなくなるわ」
まるで、あたしたちが長く一緒にいたこと自体が、間違っていたような言い方だった。
そうじゃないでしょ、美衣。それでは周囲に迎合したことになる。双子だから周りの人間に気を遣って、違う個性を持ち、離れ離れに暮らすべきだと押し付けてくる、そんな世間に反発して、あたしたちは『テスト』を始めたんじゃなかったの?
「本当にあのおじさんでいいわけ?パパやママだって、きっと反対すると思うわ」
「愛があるから大丈夫よ」
「瀬戸の花嫁じゃないんだから……。あたしは美衣を心配してるのよ。恩納さん、本当に美衣を大事に思ってくれてるの?若さ目当て、身体目当てだったりしない?」
実は美衣にもその不安はあったのだろう。表情が少し曇った。
が、すぐにそんな自分を恥じるように、あたしを見上げてきっぱりと言った。
「恩納さんは今までの男とは違うわ。誠実で優しい人よ」
「あたしたちが年齢ごまかしてて、実は30代でしたって言ったら、あの男はどう反応すると思う?きっとコロッと態度を変えて、騙されたって罵倒するわよ。今までの男みたいに」
「そんなこと……!」
姉の恋を邪魔するつもりはない。むしろうまく行って欲しかった。
あたしの好きな人も沖縄、姉の好きな人も沖縄。これは運命のように感じていた。お互いにこれが最後の恋になるとわかっていたからこそ、失敗は許されなかった。
あたしは姉のトランクの上に手を乗せて、不安を和らげるように語りかける。
「美衣、あなたが本気で恩納さんと結婚するつもりなら、あたしに最後のテストをさせて」
『10以上も年の離れた女の子と結婚できる』そんな邪な欲望に身を浸している男に、大事な姉を渡すわけにはいかない。
恩納仁が本当に美衣を大事にしてくれるのかどうか、双子の妹として試す必要がある。
美衣が幸せになるためなら、あたしは何だってする。姉の恋がうまくいったら、あたしも勇気が出せる気がする。
「あたしを沖縄に行かせて」
美衣は最後まで抵抗を示したが、結局は折れた。交際OKの返事はもらったものの、彼女もきっと、恩納氏の本心がわからず不安だったに違いない。
姉が使うはずだったトランクを引きずり、あたしはホテルには寄らず、直接『やさちゅら』を訪ねた。『準備中』の札がかけてあるが、構わず扉を叩く。
「恩納さん、お久しぶりです。伊藤美衣です」
「美衣ちゃん!?」
汚れたシャツを着た恩納仁が、慌てたように出迎える。
あたしは彼の肩越しに、隙なく店内に目を走らせた。まだ朝も早い、女でも連れ込んでいたら即アウトだったが、その形跡はないようだ。
「どうしたんだ、空港に迎えに行くって言ったのに……ああ、とにかく中へ」
扉が閉められると同時に、あたしは背伸びして、恩納氏にキスをした。
舌を入れようとすると、彼は驚いたようにあたしを離し、「やめなさい」と言った。
ふん、紳士ぶっちゃって。あたしは心の中で毒づきながらも、しおらしい顔を作ってみせる。
「どうして……?お付き合いしてくれるんでしょう?」
いくら気取って見せても、男は下半身の欲望には勝てない生き物。この男だってそうに決まってる。
美衣を騙して身体だけ食い尽して、年を取ったら捨てるつもりなんでしょう?
「美衣ちゃん、君はもっと自分を大切にしなきゃいけない」
恩納仁はあたしの肩に手を置き、真剣な眼差しで言った。
「俺は、君の身体が目当てで、付き合いを承諾したわけじゃない。いつも明るくてハキハキして、素直でいい子だと思ったし、俺よりずっと英語がうまいのに、それを全く鼻にかけないところにも惹かれたんだ」
「は、はあ……」
恩納氏は、自分が予想していた人物と全く違った。あたしの誘惑に負けるどころか、あたしが迫力で負けてしまった。
考えてみたら、親から継いだとはいえ潰れかかった店を立て直し、外国人や観光客を相手にし、そのために英会話を習っているというのだから、しっかりした男なのは当然なのだが……。
「そこに座りなさい」
彼は、茫然しているあたしを椅子に座らせ、昏々と一時間くらいお説教をした。
「俺は、君が大学を卒業して、一人前の女性になるまで待つつもりだよ。もちろんその間に、君には他に好きな男が出来るかも知れない。俺はそれでも構わないと、ちゃんと手紙で伝えただろう。わかったら二度とこんなことしちゃいけない」
「キスくらいいいじゃないですか……」
ぶりっこを維持しながら恨めしげな声を出すと、笑いながら額にキスをされた。
「これくらいならね。これ以上は俺の理性がもたないから駄目だ」
何もかもが予想外だった。
ホテルまで送ると言い張る恩納氏を丁重にお断りし、あたしは明日また会う約束を取り付けて、トランクを引きずって元来た道を歩き始めた。
美衣には嬉しい報告ができる。彼女の言っていたように、彼はとても誠実な男性だった。あれなら、安心して美衣を任せられる。胸のつかえが下りたようで、足取りは軽くなっていいはずだった。
だが……。
あたしの手は市内の地図を握り締めている。赤く丸印をつけたところ、そこが比嘉くんの実家だ。
『沖縄には、比嘉くんの実家があるのよね』
『う、うん……』
『しかもやさちゅらと同じ市内だって言うじゃない。ついでに会って来たら?』
『卒業以来喋ってもないのに?あたしのことなんて覚えてないわよ、きっと』
そもそも、比嘉くんはあたしではなく『美衣』と話していたことになっている。
あたしとはクラスも別で認識もない。たまに美衣のクラスに遊びに行っても、口を利くどころか目も合わせたことのない、そういう存在だった。
『駄目ねえ、由布ったら。あたしにはテストなんて偉そうに言っておいて、自分の恋愛は全然進展してないじゃない』
美衣にもっともなことを突っ込まれ、あたしは沈黙するしかなかった。
比嘉くんに告白……考えただけで胸が苦しくなる。大学は休み中とはいえ、彼が実家に帰省しているとは限らない。
でも、彼の生まれ育った家を一度見ておきたい……。
あたしは海岸沿いの道路を横断しようと、左右を確認した。
車が来る気配はない。道路の向こうにタバコ屋があり、その近くにホテル行きのバス停がある。それにしても暑い。サンダルの底が焼けつくようだ。
バン
突然、視界が横転し、見開いた瞳には真っ青な空の色が映った。
全身の骨がバキバキに砕ける音とともに、身体が灼熱のアスファルトの上に叩きつけられる。
すぐに周囲は闇に包まれ、意識が薄れていった。
※
熱い……。
暑いのではなく、熱い。身体が焼ける。
いや、実際にあたしは火葬されたのだろう。伊藤由布は、生きながら業火に焼かれた。
それなのに意識ははっきりしていて、何故か視界だけが奪われている。
闇を払うためにもがく手足も既に失われていた。あたしの肉体は確かに滅んだのに、意識だけはいつまでも消えない。
暗く冷たい土の中に埋葬されて、どれほどの時間が経ったのか。
あたしはようやく這い出ることを覚えた。酷く喉が渇いていた。
這い出た先は墓地だった。まさか、自分の墓をこの目で見ることになるとは思わなかった。
身体はもはや、人間であった頃の原形をとどめていなかった。全身が完全に液状化し、吐瀉物と変わらない姿になっていた。
しばらく蹲っていたが、やがて雨が降り出した。身を濡らす水分のおかげであたしは少しだけ活動が可能になった。
歩けなくとも、車体や動物に貼り付いて移動することを覚え、彼らに長距離を運んでもらうと、人目を避けて防空壕跡のような場所に身を潜めた。
お腹がすいて動けなかった。再び意識が薄れかけた時、餌の匂いがしてくるのがわかった。
近くにある肉の塊を、あたしは夢中で啜った。誰かが餌をここに置いてくれたのだ。飢えていたあたしはお礼も言わずにそれを貪り食い、そうしてようやく空腹を少しだけ満たすと、餌をくれた誰かに向かって「だれ」と言った。そして自分が口をきけるようになったことに驚いた。
「もっと落ち着いて食べるさぁ」
苦笑したような低い女性の声が、すぐ近くでした。
餌のおかげで段々と視界が晴れてくる。正面に、四十歳くらいの女性がいた。
服は着ていない。首から下が、ゼリーのような粘液で出来ている。明らかに人間ではないのに驚きがないのは、あたしも多分そうなっているからだろう。
「あ……あり、がとう、ございます」
ゆっくりと発声しながら、あたしは腹に力を入れて、生前の姿を思い出した。
大きな目をしたアイドル顔、髪はゆるくパーマをかけたボブの、伊藤由布。念じれば液体だったはずの身体が徐々に質感を持ち始め、人間の美少女の身体を再生する。
「あたしは、伊藤由布です。あなたがこの餌をくれたんですか?」
防空壕の隅には、若い男性の死体が打ち捨てられていた。彼の内臓は食い荒らされている……その一部を、この女性はあたしに分けてくれたのだ。
「そうだよ。あんたが動けなくなってるのを見たからねぇ。お仲間なんて久しぶりさぁ」
島袋ウイさんと名乗ったその女性は、戦時中に仲間たちとこの防空壕に逃げ込んだところを、米軍の火炎放射を受けて亡くなったのだという。『液状人間』として蘇ったのは彼女だけで、以来ずっとここを拠点として一人で暮らしているらしい。
あたしは彼女に、色々なことを教わった。液状人間には主に『寄生系』と『捕食系』がいること。
あたしたちはもう、『捕食系』という種に生まれ変わり、不妊の男の人を食べないと生きていけない身体になってしまったこと。
沖縄はウイさんの縄張りだから、余所者であるあたしは速やかに出て行って欲しいということも、やんわりと言われた。
「それなら、なぜ、あたしを助けてくれたんですか?」
「あんたはまだ若いからさぁ。若けりゃやり直しもきく。あたしに受けた恩を忘れないで、いずれあたしを助けておくれね」
「……?」
あたしにはその言葉の意味はわからなかった。
ウイさんに急かされるまま洞窟を出て、しばらくあてもなく街を歩いた。夜になったら民家や商店に忍び込んで服やメイク道具を調達、人に擬態して、食べられそうな男性を探し続けた。
沖縄に知り合いはいないが、比嘉くんと恩納氏には顔を知られているから、化粧もして髪型も変えないとまずい。空港のトイレで化粧しながら、私は少し笑った。あれほど美衣との差別化を嫌がっていたあたしが、自分から進んで美衣とは似ても似つかない恰好をしているのがおかしかったのだ。
死んでから年月が経っている。あたしの死は、世間ではどのように扱われているのだろう。確か、道路を横断するときに、車に跳ねられたような気がしたんだけど。
そして、図書館で、あの日の翌日の新聞記事を確認した。
沖縄で19歳の少女が米軍の運転する車に跳ねられて死亡───これが、あたしだ。
両親は訴訟を起こそうとしてくれたらしいが、日本政府から圧力がかかり、警察は及び腰、そのうち当の米兵は国に帰ってしまい、泣く泣く諦めたという顛末だった。
実際この事実を突きつけられるまで、あたしはあまり死んだという気はしなかったが、こうして文字になっているのを見てやっと、自分が化け物に生まれ変わったのだと思えるようになった。
双子の妹を失った美衣の悲しみと、両親の嘆き。
そして比嘉くんと二度と会えない身体にされた辛さを、今になってようやく実感した。
「ふふ」
あたしは薄笑いを浮かべた。犯人が何ら裁きを受けず解放されたと知って泣きたい気持ちだったが、既に人間でなくなったこの身は、一滴の涙を流すことも許されなかった。
「ふふ、ふ……あはははっ」
黒い感情が胸の奥底で渦を巻く。捕食系の残酷な本能が、押さえても押さえても湧きあがってくるのを感じていた。
警察に忍び込み、当時の事件のデータを閲覧し、米軍基地に潜り込み───以下略。
英語を勉強しておいて本当に良かったと、この時ほど思ったことはない。飛行機に侵入すれば、海の向こうの国にだって行ける。何物にも縛られない自由な生き方を、あたしは皮肉にも死んでから手に入れたのだ。
「ウイさん」
アメリカから帰国したあたしは、踊るようにして、沖縄のウイさんの元へ向かった。
自分を殺した相手に復讐を果たしたことを、捕食系の先輩に一刻も早く伝えたかったのだ。と言うより、他に話ができる相手もいないのだが。
彼女が暮らしている防空壕跡を覗き込む。ウイさんは体力を温存するためか、液状になって丸くなっていた。
沖縄は本州より人口も少なく、そうそう都合良く餌が見つかるわけでもないのだろう。そんな状況なのにあたしに餌を分けてくれた彼女には、いくら感謝してもしきれない。
「ウイさん、伊藤由布です。お久しぶりです」
明るく声をかけると、暗がりの中でもぞもぞと彼女は動いた。
「……ああ、あんた。まだ沖縄に……?」
出て行けと言わなかったか、と呟き、億劫そうに人間の姿になる。
しかし、あたしが口から『お土産』の肉塊を吐き出すと、ごくりと喉を鳴らして即座にかぶりついた。
「ん……ありがとうね。お礼なんて期待してなかったよ。由布ちゃんって言ったか、最近の若い子にしては、礼儀がわかってるね」
「こちらこそ。あのねウイさん、あたし米兵をやっつけたのよ」
誇らしげに言うあたしを、ウイさんは餌を食べるのをやめて見上げた。
「……彼は不妊だったのかい?」
「ううん。普通の奴だったけど、あたしを車で跳ねて殺したのに、のうのうと生きてたのよ。だから復讐のために」
ウイさんは深く息を吐いた。
「厄介なことをしてくれたね。由布ちゃん、あたしたちが殺生していいのは、種なしの男だけだよ。気持ちはわかるが、それ以外の人間には手を出しちゃいけない」
称賛ではなく否定の言葉を吐かれ、あたしは狼狽した。
「ど、どうして!?喜んでくれると思ったのに。ウイさんだって、戦争でアメリカ人に殺されたんじゃない!」
英語が好きだったのは文法的に面白いのと、これからの時代には英語が必要だからと思っただけで、別にアメリカ人に憧れていたわけではない。
あの国にはライバルのような気持ちを抱いていた。日本だって負けていないと。そして今回のことで、自分だけでなく、彼女のためにも復讐したような気になっていた。
生前の姿になったウイさんは、長い黒髪をかき上げて、憂いの表情を見せる。以前はじっくり観察する余裕はなかったが、良く見ると目鼻立ちのはっきりした琉球美人だった。
「考えてもごらん。あたしを殺した兵士たちだって、爺さんになってまだ生きてる。この身体を使って、復讐しようと思えばできるんだ」
「それなら、どうして……」
「せっかく悪い夢が終わったのに、アメリカに手を出したらまた戦争になる。あたしらは、もう誰も恨んじゃいない。争い合い、憎み合うんじゃ、男の繰り返してきた歴史と同じだ」
「………」
「あたしらは、男と同じことはしたくないんだよ」
ウイさんの言葉が、胸の奥に深く重く沈んでいく。
新参者のあたしのしでかしたことが、日米関係を悪化させるかも知れない。そこまで考えていなかった、自分の浅はかさに嫌気がさした。
ウイさんは戦争の犠牲者で、死してもなお耐え忍んでいると言うのに、戦後の平和な時代に育ったあたしが、激情に駆られるまま『対象外』の男を殺めてしまうなんて。
彼女に合わせる顔もない。あたしは陰鬱な思いで、かつて訪れた『やさちゅら』に向かっていた。
姉の美衣が恩納氏と結婚していることは調査済みだった。今頃は幸せにやっていることだろう。
遠くからでもいい、最後に姉の美衣を一目見て、それから本州にお仲間を探しに行こう。東京なら、液状人間の数も多いはず……。
夜の匂いに交じって、ふわりとしたいい匂いが鼻をくすぐる。それは『条件』を満たした男の匂いだった。
『やさちゅら』で食事を終えた若い男の客が、ジーパンのポケットに手を突っ込みながら出てくる。彼の全身から、食べてくださいと言わんばかりの香りが立ち上っている……。
間違いない、不妊男性だ。あたしたちに食われるためだけに存在する命。ちょうどいい、何かお腹に入れて忘れたい気分だったから。あたしは悲しみと笑いの交ざった表情で、捕食対象に近づいた。
「おっ……あれ?奥さん……?」
男性客は困惑していた。無理もない、あたしの顔は美衣とそっくりなのだから。今しがた出てきた店の奥さんが、いつの間にか自分の前方に回り込んでいる、一瞬そんな錯覚を受けたのだろう。
ただ、あれから10年近い時が経っていた。年の離れた妹にも見えたかも知れない。
人目のない今のうちに、どこかへ引きずり込まないと。あたしは男の首筋に噛みつき、騒がれる前にその喉笛を食い千切った。
「ひゅ」
男は気道から変な音を出して即死した。彼には何の恨みもないから、苦しませずにひと思いに殺してあげるのは、あたしなりの情けだった。
「お客さん、お財布忘れ……ひっ!」
背中に懐かしい声を浴びて、振り返る。
男の体を抱えて海に移動しようとしたあたしの背中ごしに、死に別れ……いや、生き別れた双子の姉の姿があった。
美衣だ。
ずっと会いたかった、あたしの双子の姉だ。
随分と大人っぽく、また綺麗になっている。あたしは19のまま時を止めているのに、彼女は既に30近い大人の女性になっていた。
店のエプロンをつけて、夫を支えて懸命に働いている様子が、その恰好だけで見て取れた。
懐かしさのあまり、あたしは男の身体を放り出して微笑んだ。口から男の鮮血を滴らせながら。
「美衣」
遠くから姿を見るだけで、満足するはずだった。本来なら、姉と目が合った途端、逃げなければならない立場のはずだった。男を食うまでは、あたしはそのつもりだった。
だが、男の血肉があたしを酩酊させ、狂わせる。捕食をしている間、液状人間は理性を失い、ただの獣になる。
心を殺し、己の中の人間性を排除しなければ、人を食らう嫌悪感や罪悪感で押しつぶされてしまうからだ。
「美衣……わかる?あたしよ。由布よ」
ぽたり、と血痕が地面に落ちる。
由布は後ずさりした。来ないで、とその唇が恐怖に満ちた言葉を紡ぐ。
彼女は店の中ではなく、夜の闇に向かって走り出した。店の名前が印刷されたエプロンがばたばたと風になびく。
「どうして逃げるの、美衣」
あたしも彼女を追いかけた。追いつくのは簡単だった、液状化した腕を長く伸ばして、姉の頭をがっしりと捕まえる。
「きゃああああ!助けて、あなた、助けてえええっ!」
店の中に逃げ込まなかったということは、恩納氏は多分、店を空けているのだろう。どこかに買い出しにでも出かけているのか……まあ、いい。
久しぶりの姉妹の談話に、第三者の口を挟まれたくない。
「美衣、わからないの?由布よ、あなたの双子の妹の」
顔を近づけて囁くと、美衣は身をよじって拒否を示した。
「いやぁっ、化け物!こっちに来ないでえっ!」
───化け物?
ああ、そうか。人間の女性から見たらあたしたち、化け物なんだっけ。
だけど、美衣の口から言われると酷く傷つく。だって同じ顔じゃないの。
確かに今はあたしの方が幼いけど、気持ちはあの頃と変わっていないつもりなのに。
何が変わったの、美衣?結婚して変わったのはあなたの方じゃない?
「美衣、話を聞いて。あたしは……」
「いやぁ!」
激しい拒否を受け、あたしは思わず美衣の頭を離してしまった。
バランスを崩した彼女は、海へと続く砂浜へと降りるための小さな階段を、仰向けに転げ落ちていく。
手足がびくびくと痙攣し、口からは白い泡が溢れた。しばらく痙攣していた彼女は、やがて息をするのをやめた。
※
ねえ、美衣。
どうしてあたしたち、こんなことになっちゃったのかな。
胃袋の中で揺れている姉に、あたしはそっと語りかける。
姉妹でずっと、一緒にいたかった。嫁ぎ先も近くが良かった。
好きになった人がともに沖縄の人で、一緒にお嫁にいけるかも知れないなんて、少しだけ思ってみたのに。
『その双子の姉妹は最低だな。二人ともくたばっちまえばいいのに』
高校時代の、比嘉くんの言葉を思い出す。
彼は、預言者か何かだったのだろうか。まさにその通りになっちゃったわね。
でも、あたしは、美衣の分まで生きなければならない。
彼女を殺し、米兵を殺した罪を背負って、人としての生を全うしたい。
恩納氏との夫婦生活は順調だった。
美衣を食い、取りこんだことで、あたしは彼女の容姿も記憶も引き継ぐことができたからだ。
今のあたしは19歳ではなく、28の大人の女の身体をしていた。それゆえに何の疑問も持たず、『愛してるよ美衣』と呑気に腰を振る恩納仁。嬉しいと答えながらも、内心は「見損なったわこのクソ親父」と罵っているあたし。やはり美衣とあたしを区別できる男は、存在しなかったのだ。
じれったく、腹立たしく、伊藤由布であることを見抜いて欲しいのに、見抜かれたらこの生活は終わる、その矛盾。
美衣が愛したこの男を、美衣に代わって愛してあげたいのに、それすらも出来なかった。
あたしの心には、常に比嘉くんがいたから。
別の男を好きになることなんて到底無理だったのだ。
『比嘉くん、第二ボタンくれない?』
『は?なんで伊藤に?』
『……もしかして、第二ボタンの意味知らないの?』
『知るかそんなもん』
『卒業式に女の子にボタンをあげると、将来出世するという伝承があるのよ(嘘だけど)』
『ふーん』
『比嘉くん、ほんとに何も知らないのね』
『うるさい。ほら、あっちでお前の取り巻きの男どもが待ってるぞ、さっさと行ってやれよ』
『どうせ制服なんてもう着ないでしょう。記念にボタンちょうだい』
『たく、面倒だな……こんなもんが欲しけりゃやるよ、そら』
『きゃあ!』
『はは。ばーか』
空中に放り投げられた第二ボタンを取り損ねたあたしを見て、比嘉くんは初めて笑った。
桜の花びらが散っている中で、眩しく見えたあの笑顔。
傍にいて欲しかった。あの辛辣な言葉も、口調も、意地悪で根暗な性格も、あたしだけのものにしたかった。
※
「……比嘉くん?もしかして比嘉くんじゃない?」
初恋の相手の姿を目の前にして、あたしは信じられない気持ちでいた。
東京で就職して、もう二度と、沖縄には戻ってこないと思っていた。
恩納美衣として家庭を持っているあたしは、家事や夫の手伝いで忙しく、今までのように自由に全国を行き来することは出来ない。
だから、諦めもついたのに───こんな形で再会できるなんて夢にも思わなかった。
高校時代より少しだけ背が伸びていた。失業して、よりやつれた様な面持ちになっていたけれど、そこがまた憂いを帯びた感じでそそられる。
何より……彼は、『条件』を満たしていた。高校の頃は、液状人間ではなかったから気付かなかったけど……。
比嘉くんは、子供を残せない身体なのだ。恐らく彼はそれに気付いていない。彼を傷つけたくはないから、知らせない方がいいだろう。命の尽きるその時まで。
液状人間、いわばスライムになったあたしを見て、恐怖に怯える比嘉くん。ぞくぞくする。
嫌がって、半泣きになって手足を振り回す彼の身体を、少しずつ体内に取り込んでいく快感。焦がれ続けてきた存在が、ようやく手に入る喜びと、相反する切なさ。
こんな形ではなく、正面から告白して、恋人同士になりたかった。でもそんなこと、今さら言えない。
言ってどうするというのか。あの時あなたと話していたのは由布だったのよと、人でなくなったこの身体が言って、何の意味があるのか。
「比嘉さん」
よそよそしい呼び方をして、まるで初対面であるかのように振る舞うあたしの心が、目に見えない涙を流す。
比嘉くんは既に寄生系スライムと邂逅し、彼女を凍結させていた。寄生系がそこまで拒まれるなら、捕食系であるあたしは言うに及ばない。今のあたしに出来ることは、純粋な悪役を演じたまま彼を葬ることだけだ。
「被害者ぶるのもいい加減にしなさい、比嘉石矢」
辛いのはあなただけではないと、言い訳のように囁くうちに、彼の体は少しずつ溶けて、あたしと一つになっていく。
でも大丈夫……あたしが『産み直してあげる』。仕事を辞めて沖縄に逃げ帰ってきた彼。人生に疲れていた彼。そんな彼に、今までとは違った新しい人生を歩ませてあげたい。それが、彼に出来るあたしの精いっぱいの償いだった。
『若けりゃやり直しもきく。あたしに受けた恩を忘れないで、いずれあたしを助けておくれね』
二度目に会った時、あの言葉の意味を尋ねたら、ウイさんは密かに教えてくれた。
若ければ、スライムでも妊娠は可能なのだ。子供を授かると、その肉体は人間の女性に生まれ変わり、捕食は不可能になると聞いた。
あたしが産む子供は、間違いなくハーフスライムだろう。人間と液状人間、両方の血を引く存在だ。
人間とスライムの架け橋となり、ウイさんのような女性を救うことが出来るかも知れない。だがその一方で、想像もつかない苦しい人生を歩ませることになるかも知れない。
ごめんなさい、比嘉くん。
正直なあなたに、何度も嘘を付くようなまねをして。最後まで偽りの自分を演じてごめんなさい。
でも、あの高校時代の思い出があったから、あたしは今まで生きて来られた。
そのささやかな思い出を、自分から汚したくはない。告白して拒まれるよりも、美しい記憶として永遠に取っておきたい。
我儘な願いとともに、あたしは膨らんだ腹をさすり、停めてある車へと歩き出した。
「さあ、一緒に帰ろうね……」
お腹の中の好きな人に、ラブユーではなく、イートユーだけを告げながら。