fc2ブログ
    #ジャンルごちゃまぜ二次創作やオリジナル小説置き場(21禁)#

    ジャンルごちゃまぜ二次創作やオリジナル小説置き場(21禁)

    愛玩情史

    目次(小説一覧)

    ※全て21禁です
    ※未成年の方は閲覧をご遠慮下さい




    エロパロ

    個性的なモンスターが多数登場する、カプコンの名作格闘ゲーム

    なかよし連載でアニメ化もされた少女戦隊漫画

     

    創作長編
    都内にあるスーパーのイケメン店長とスライム少女の話 







    【ヨリドコロイド】三日月のかけら

    店長さんが、ソファの上で爪を切っています。
    私はいつ気づいてくれるかと思っていましたが、一向に気づく気配がありません。
    やはり、こちらから切り出した方がいいのでしょうか。洗濯物を畳む手を止め口を開いた途端、店長さんが顔を上げておっしゃいました。

    「あのさ、スーちゃん」
    「はい」
    ようやくわかってくれたのか、と思ったのは早計でした。
    店長さんは、とても三十半ばには見えない可愛らしい童顔を私に向け、モデルのような長い足を床に落ちつけると、不思議そうに首を傾げました。
    「俺が毎月渡してるお小遣い、どうしてるの?何も買ってる形跡ないけど」
    私は軽い落胆を覚えつつ、店長さんの質問に答えます。
    「それはもちろん、大事に封筒に入れて、タンスの引き出しの中にしまってありますよ」
    店長さん──FCと言うスーパーマーケットの店長を務めている、飯尾和成さんの体に寄生するようになってから、とても幸福な時間が過ぎて行きました。
    店長さんもその奥様も、実の娘のように私に良くして下さり、専用の部屋やお小遣いまで与えて下さいました。
    お小遣いは、月に一万円ほど頂いています。けれど、人ならざる身である私にはそのお金を使って何かをすることなど恐れ多く、ためらわれます。
    私の答えに、店長さんは私以上にがっかりした顔をされました。
    「何でそんなおばさんみたいな真似を……」
    「おばさんなんですから、仕方ないじゃありませんか」
    私──今村スミレは、享年十八歳の『寄生系』液状人間です。不妊男性の体内に寄生し、糞尿をすすって生きる忌まわしい存在です。
    病死せずに現代まで生きていれば、店長さんのお母様と同い年の団塊世代であり、世間的に見れば充分におばさん、いえ、孫がいてもおかしくない年齢なのです。
    「もしかして遠慮してる?家の事手伝ってくれてるんだし、気にしないで何でも欲しいもの買っていいんだよ」
    そうおっしゃられても、本なら図書館で読めますし、着飾ることにも興味はありませんでしたから、本当に欲しい物などないのです。
    私のこの醜い容姿を人様に晒す事になりますから、外出もなるべく控えたいくらいです。
    けれど店長さんは、私を着飾って連れ回す事がお好みのようで、断る理由に困ってしまっています。
    「生きてれば普通、あれが欲しいこれが欲しい、ってなるんだけどな。スーちゃんって本当に欲がないんだなあ」
    欲がない?それは違います。
    私には、店長さんの知らない、人一倍大きな欲がありました。世界中を巻き込み人類の歴史を塗り替えてしまうほど、とてつもなく大きな欲です。
    「男性の考えを変えさせたい」という欲望。先人が何度も試みて、その度に失敗してきたであろう案件です。この願いを叶えるために、死してもなお、寄生する化け物として生まれ変わったに違いありません。現に私は今も、この無邪気な男性の愚行を止めさせるために、言葉を紡ごうとしているのです。
    「欲を出せとおっしゃるのなら……僭越ながら、一つよろしいですか」
    「うん?」
    私はため息をつきながら、店長さんの足を見つめました。
    「先程から、言おう言おうと思っていたのですが……」
    この期に及んでも、店長さんはきょとんと私を見ていらっしゃいます。
    私はいたたまれなくなって立ち上がり、テーブルの上にあったチラシを手にとりました。
    それを店長さんの足元のカーペットに敷き、彼を見上げる姿勢になって告げました。
    「爪を切る際には新聞紙か何かを敷いて下さるよう、以前も申し上げましたよね?」
    「ああ……」
    店長さんは、まるで夢から醒めたばかりのように、その大きな目をぱちぱちさせました。
    「奥様のお掃除が大変になるからと。それに今は夏ですから、素足でいる事が多く、踏んだら足のひらが傷ついてしまうかも知れません」
    「うん」
    「この間もその後も、もう何度も申し上げました。どうして聞き入れては下さらないんですか?」
    極力感情的にならないように告げたつもりですが、肝心の店長さんの方が感情的でした。
    「頭ではわかってるんだけど、そのう……俺も仕事で疲れてるし」
    店長さんは頬を掻き、顔をそむけました。
    男性がよく使うこの手の言い訳は、現状には該当しないと私は判断しました。
    「仕事でお疲れになっていることと、爪を散らかすことに、どのような関連性があるのでしょう。ましてや今日はお仕事はお休みで、朝から日課のジョギングをなさって来たばかりじゃありませんか」
    「じゃあジョギングで疲れてる……」
    「それは確かに、お疲れ様です。ですが、すぐ近くのテーブルの上に置いてあるチラシを取って足の下に敷く事に、それほど労力を要するとは思えないのです。私がこの件について店長さんをお諫めするのは、既に五回目になります。今日こそは途中で気づいて下さると、私は辛抱強く待っていたのですよ。奥様の手を煩わせても、どうしても爪を散らかさなければならない正当な理由がおありになるのなら、どうぞ私に説明して下さい。それが納得できる理由であれば、無礼をお詫びします」
    「あー」
    店長さんは私の顔をじっと見て、それから笑顔になって、そっと頭の上に手を置かれました。
    「もしかしてスーちゃん、今日機嫌悪い?」
    「!?」
    またしても、全く関係のないことを口にされ、私は目を瞠るほかはありませんでした。
    私は、『爪を切る時は何か敷いて欲しい』と告げたのです。決して実現が困難な要求ではないはずです。
    これほど懇切丁寧に説明したと言うのに、店長さんにはそれが伝わらず、私の機嫌が悪いから怒られるのだ、という結論に達したようでした。
    「女の子ってそういう時あるよな、急に怒り出したりとか。うんうん、俺は許容あるからちゃんと受け入れられるよ。ずっと家の中にいるとそうなるよな」
    「…………!?」
    私の頭の中では『会話不能』『理解不能』の四文字が交互に躍っていました。
    もう何日も前から同じことを注意しており、いつか改めて下さると信じ、出来ないのならせめて理由が知りたい、と努めて冷静に口にしたつもりでしたが、それが店長さん流の解釈によると、「機嫌が悪く、急に怒り出した」ということになっている模様です。
    私の説明の仕方に不備があったのでしょうか。だとしたら伝わらないのは仕方ありませんが、機嫌が悪いという判断の根拠は、店長さんの感情の中にあるとしか思えませんでした。
    機嫌が良いか悪いかという二択ならば、確かに悪い方に分類されるでしょう。しかし、だから私の言う事は聞けない、という主張ではないようですし……。
    二の句が継げなくなっている私をぎゅうっと優しく抱きしめると、店長さんは耳元で囁かれました。
    「そうだ、来週の休みに、遊園地に連れて行ってあげるよ。何を怒ってるのかわからないけど、それで機嫌直して?」
    ……若い方が冗談で用いる『頭痛が痛い』という重複表現は、まさに今の私に当て嵌まっていました。

    店長さんをどうにか振り切り、這うようにしてキッチンへ向かうと、そこでは奥様がお夕飯の支度をしていらっしゃいました。
    丸みのあるふくよかなお体は、思わず後ろから抱きつきたくなるような逞しい母性に溢れています。
    私たちの会話が聞こえていたようで、苦笑いを浮かべながら「大変だったわね」と労って下さいました。
    「でも男の人なんて、皆あんなものよ。スーちゃんみたいなきちんとした子から見たら納得がいかないだろうけど、どうかあの人の事嫌わないでね」
    つまり、奥様も店長さんと話が通じない時がある、という事です。私はまだ痛む頭に手をやりながら、静かに首を横に振りました。
    「嫌うだなんて、とんでもない。お気遣いありがとうございます、奥様。洗濯物が片付きましたので、こちらもお手伝いします……」
    女性同士なら、説明するまでもなくこのように労りあえると言うのに、なぜ男性相手だとあのような不可解な事態が生じてしまうのでしょうか。
    「ありがとう。私の代わりに和くんに色々言ってくれるから、ほんと助かるわ。って、こんなんじゃ妻失格かしら?」
    「いいえ……お気持ちはわかります」
    あの店長さんを、今まで一人であしらっていらっしゃった奥様には、本当に頭が下がります。
    店長さんの体にさえ入っていれば、私が疲れて倒れるといったことはありません。ですが、奥様はあくまでも生身の人間なのです。
    奥様のお名前は、飯尾彼方さんとおっしゃいます。私がこの家に来た当初から大歓迎して下さいました。化け物と罵られるはずが温かく受け入れられた、その理由が謎でしたが、近頃わかるようになってきました。
    お二人はとても愛し合っている素敵なご夫婦ですけれど、お子さんが出来ない原因が店長さんにあることで、お互いに気を遣い合ってぎこちなくなっていた時期もあったそうです。
    それが、私が間に入る事によって、店長さんの愛情が私にも向けられるようになり、好意が分散されたと申しますか……。
    子はかすがいとはよく言ったもので、私が店長さんをあやしている間に、奥様はご自分の事が出来るので、ずいぶん気が楽になったとおっしゃって下さいました。
    「奥様はなぜ、店長さんとご結婚なさったんですか?失礼ながら、奥様も大人しい方ですから、振り回されて疲れる事も多いでしょうに」
    店長さんは決して悪い人ではありません。いつも明るく職場の方にも慕われていらっしゃって、お客さまに対する気遣いも細やかです。
    けれどああいう方ですから、あまり論理的な思考は期待しない方が良いのかも知れません。こちらが消耗するだけだと学びました。
    「だって、捨てられた子犬みたいな目をして、『付き合って。だめ?』なんて言われたのよ。それで断れる女がいたら見てみたいわ」
    「最初はお好きではなかったのですか?」
    「私の友達が彼の友達と付き合ってたから、話はよくしてたし、好感はあったわよ。でもそれ以前に、あんなイケメンが私を好きだなんて、信じられなかったわ。ほら、私って昔からおデブだし」
    「そんな……近頃の女性が痩せすぎなんですよ」
    「スーちゃんだって小柄で痩せてるじゃない。でね、あの人、誰に対してもあんな感じでフレンドリーでしょう?てっきりいつもの冗談だと思って、『またまた~』って言ったら、『俺本気なんだから、茶化さないで。好きなんだ』って真剣な顔されちゃって、こう、キュン……っとね。わかる?」
    わかりますけど……。
    好き、という気持ちを持続させるのがどれほど困難か、私は知っています。
    店長さんと出会う前、私は数多くの男性の体に入り、その体を通じて、様々な家庭を覗き見して来ました。
    愛し合って結婚したはずなのに、妻に暴言をぶつけたり、暴力を振るったり、酷い場合には殺してしまったり、そんな悲しい夫婦を何度も見ています。店長さんと奥様まで、そうなって欲しくはありません。
    奥様は、男の人なんて皆あんなもの、とおっしゃいましたが、店長さんがたまたま感情豊かな男性だからと言って、全ての男性が感情的だとは私は思いません。
    男性だから仕方ないと許してしまう事は、男性の思考能力が女性よりも劣っている、という認識を広めてしまう結果に繋がりかねません。
    男性憎悪から誕生した化け物が何を言うか、と思われるかも知れませんが、私たちは男性に一家言あるからこそ、極端な差別はしたくないのです。嫌いではあっても見捨てられはしない。『寄生系』というのは色々と、複雑な性格をしています。


    夕飯を食べ終えた店長さんは、先にリビングに戻りテレビをつけながら、入口に立っている私に向かって手招きなさいました。
    「スーちゃん、こっちおいで。一緒にテレビ観よ」
    いつものようにお膝の上に乗せて抱っこして下さるのだと判りましたが、私は今日は従いませんでした。
    その代わり、静かに膝を折り、店長さんの前に三つ指をつきました。
    「スーちゃん?」
    怪訝そうな声を遮るように、私ははっきりと自分の意思を伝えました。
    「申し訳ないのですが、二、三日お暇を頂きたいのです」
    「えっ、なんで!?」
    ここまで予想通りの反応をされる男性も珍しい、と私は思いました。
    「理由は、店長さんが一番よくご存じのはずです」
    「わかんない」
    またしても即答でした。
    私は体から力が抜けて行くのを感じながら、深くため息をつきました。
    「考える時間を差し上げます。私もたまには、外の風に当たらないといけませんし……」
    「和くん、あまり困らせちゃ駄目よ。スーちゃんだって一人になりたい時があるでしょう」
    キッチンで洗い物をしている奥様が、首だけこちらに向けて助け船を出して下さいます。
    奥様には弱い店長さんは、うう……と犬のような唸り声を上げ、上目遣いに、悲しそうな目でこちらを見つめています。
    確かに、この愛くるしい表情に逆らえる女性は少ないでしょう。ただし、人間の女性であればの話です。
    「だって、俺から離れたらスーちゃんだって困るだろ。その間ごはんどうするの?」
    「他の男性の体に寄生しますよ」
    「えっ、やだ!」
    あからさまな嫉妬に、呆れと愛しさが混じった複雑な感情が、私の胸を締めつけました。
    「何をいまさら……店長さんを宿主に選ぶ以前は、それこそ色々な男性の体内に、無断で入っていましたよ」
    「過去は過去だろ、気にしないよ。でも、今のスーちゃんの宿主は俺だろ?俺以外の男の体に入るなんていやだ」
    「駄々を捏ねないで下さい」
    子供のいない男性はいつまでも子供っぽい、などという偏見は良くないですが、店長さんに限っては当て嵌まると思えます。
    本当に、この人の感情を丸ごと受け止めている奥様を尊敬します。
    結婚というのがひたすら我儘な男性のご機嫌を取る事ならば、私は生涯独身で構いません。実際にそうなったわけですが……。
    「男の体に入らずに栄養取る方法ないの?そうだ、俺のう○こを容器に入れて持ってけば?いわゆるお弁当だよ」
    「店長さんには恥じらいと言うものがないのですか」
    「いい年したおっさんにそんなもの求められても……それより、スーちゃんを他の男に取られないようにする事の方が大事」
    先程まで子供だったのに、都合が悪くなると中年男性に変わりました。
    「私、そんなに簡単に心を移すような女ではありません。それに排泄物を持ち歩いたら、匂いで周りの方々の迷惑になります」
    私の物言いは冷たく聞こえるかも知れませんが、この時は半分照れ隠しもありました。
    店長さんは、私や奥様に対する好意を、日頃からはっきりと口になさいます。
    不美人であるがゆえに、父親以外の異性に愛情を向けられた記憶がない私は、店長さんの真っ直ぐな気持ちに対して、未だに戸惑いを隠せません。
    女性の価値は見た目ではない、外見で判断してはいけない──世間ではそう言った甘言を聞く事は多いものの、それを名実ともに実行している男性となると、なかなかいないものですから。
    「でもさー、君みたいに潔癖で男嫌いな子が、『男の体に入らずに済む方法を、今まで一度も考えなかった』とは思えないんだよな」
    「……」
    妙なところで勘が鋭い方です。
    「本当は方法があるのに、意地悪して隠してない?」
    このままではいつまで経っても解放してはくれなさそうです。私は観念する事にしました。
    「そうですね……確かに、方法はなくもないですが」
    途端に、店長さんの顔がぱっと輝きました。
    「やっぱりあるのか。ごねて正解だったな」
    「店長さんのように生きられたら幸せでしょうね……」
    「皮肉はそのくらいにして、早く教えて。どうすればいい?」


    その夜、「寂しい」を連呼する店長さんを奥様と二人でどうにか寝かしつけ、私は夜明けとともに飯尾家を出ました。
    それでどこに行くの、と店長さんに聞かれた際、迷わず「遊園地です」と答えました。その時の店長さんの表情を思い出して、私はくすくすと忍び笑いを漏らしました。
    そんな、外見のみならず性格も意地悪で歪んでいる私を、どうして店長さんは可愛がって下さるのか。その好意にうまく応えられず、この身に染みついた男性不信から、共に暮らしていても彼の悪いところばかり目につき、批判してばかりいる。それでいて、店長さんに買って頂いたお洋服や靴を身につけて出かける、この矛盾。
    ──男に寄生しなければ生きていけない癖に。
    そう言ったのは、どこの捕食系であったのか、私はもう覚えていません。男性の肉体そのものを食らって生きる捕食系には、私たち寄生系は、男に媚びるあさましい種と思われているのです。
    朝もやの街を駅へと向かって歩きながら、私はショルダーバッグから小さな瓶を取り出しました。その中には、店長さんの爪や髪の毛がぎっしりと詰めてありました。
    爪からはカルシウム、毛髪からは鉄分が取れます。尿からはビタミンC、便からはタンパク質。私たちの必要としている栄養素は、実は人間とさほど変わらないのです。
    瓶を傾け、手のひらの上に爪を少し出し、口の中に放りこみました。
    三日月のかけらのような、店長さんの爪。慕っている人のものなのだと思うと、心なしか甘いような気がします。
    これで当分のおやつ代わりにはなります。でも非常食のようなものですし、店長さんの体内の心地良さには、比べるべくもありません。
    私は自分で思っているよりずっと、店長さんに依存しています。好きだよ、大事にする、と囁かれるたびに、自分と言う存在が溶けて、彼に向かって流れ出してしまいそうになります。
    でも、それでは私も店長さんも駄目になってしまう。彼も私の欠点を指摘するべきだし、私も彼の優しさに甘えず、悪いところは直すべきなのです。
    私の方こそ、少し頭を冷やす時間が必要でした。

    電車を乗り継いで、一番近い遊園地に辿り着いた頃には、お日様がだいぶ高く昇っていました。
    券売機でチケットを買い、乗り物の順番を待っている人の列に並びました。夏休み前の平日だからか、思っていたより人は少なく、さほど待たずにジェットコースターとやらに乗る事が出来ました。
    遊園地に来たら、必ず乗るものだとされるジェットコースター。カーブを曲がったり落ちたりするたびに、同乗した人々が歓声を上げていましたが、これの何が楽しいのか、私にはわかりません。わざわざお金を払って怖い思いをしようとするのは、世が平和な証でしょうか。
    その後は何に乗る気にもなれず、ベンチに座って、しばらくぼんやりと人の流れを見ていました。
    「ちぃーす、スミスミ。お久しぽよ」
    不意に、後ろから肩をぽんと叩かれました。
    振り返った先には、黒のミニスカートに包まれた胴体が見えました。顔を上げれば、人懐っこい笑顔。私はすぐに該当する人物を思い出せませんでした。
    「……あの?」
    何か、光りものが沢山ついた、きらびやかな服装に身を包んだ、いかにも現代風の女の子が、そこには立っていました。
    私を知っている事と、人目を引く美しい容姿を持つ事から、『捕食系』であるのは間違いありません。
    しかし、人の顔と名前を覚えるのが極端に苦手な私は、その方の名前を自信を持って呼ぶことはできませんでした。
    「あれ、忘れた?性技の味方、高須イオナですwww」
    「ああ」
    思い出せない私を不快に感じた素振りもなく、笑って告げるその性格、ようやく思い出しました。
    数年前、とある事件で知り合った高須イオナさんは平成生まれで、いわゆるギャルと言われる享年十七歳の少女です。
    捕食系の例に洩れぬ美しい方で、段の入ったキャラメル色の巻き毛とぱっちりとした瞳、すらりと伸びた手足は、まるでリカちゃん人形のよう。死んだ当時の年頃は同じでも、何もかもが私とは正反対でした。
    捕食系と慣れ合う気はない私ですが、この方は仲間意識や正義感といった感情が人一倍強く、どこか憎めない快活さを持っています。
    「お久しぶりです、イオナさん。今日はお一人で?」
    「ん」
    イオナさんは私の隣に腰を下ろすと、下着が見えてしまいそうな角度で、お行儀悪く足を組みました。
    行き交う人々、特に若い男性が、ちらちらとイオナさんの足を見つめているようなのは、決して気のせいではないでしょう。
    「スミスミこそ、今日はテンチョーさんいないの?団塊がひとり遊園地とか現代的じゃん?」
    「たまには、いいかと思いまして」
    私が沈んでいる様子でいるのに、イオナさんは気付いたようです。香水の匂いを漂わせながら身を乗り出してきました。
    「もしかして喧嘩した?じゃあテンチョーさん今フリー?食っていい?」
    「駄目ですよ」
    恐らく本気ではないのでしょうが、私はそう答えておきました。
    店長さんは、捕食系であるイオナさんを酷く嫌っています。被食者が捕食者を避けるのは当たり前ですが、彼女が多くの中年男性が顔を顰めるギャルという種族である事も、理由の一つに違いありません。イオナさんもそれをよく知っていて、店長さんをからかうのを好んでいるようでした。

    ふと誰かの視線を感じてそちらを見ると、ジェットコースターの柵に寄りかかって談笑していた若い男性の三人連れが、私とイオナさんを見て何やら囁き合っています。
    「見ろよ、あの子ら」
    「すげえ顔面格差……」
    「現実って残酷だよな~」
    囁きが耳に入り、ただでさえ沈んでいる気分が更に落ち込んでいく気がして、私は俯いてしまいました。
    これだから、外に出るのは嫌なのです。世の中は悪意に満ち溢れており、私は家の外では絶えず異性のこんな視線を浴びせかけられてきました。
    病弱で顔色が悪い事もあり、幽霊、お岩さんと陰口を叩かれた事も、面と向かって死人と言われた事もありました。
    お望み通り死んでしまった今も、私に向かってあの暴言を吐いた男子たちは、ごく普通に結婚して子供を作り、孫も産まれ、この空の下で幸せに暮らしている……。
    普段は理性で抑え込んでいる、どす黒い感情がお腹の底から突き上げてきます。
    店長さんと出会って、とても大事に扱われて、彼が生きている限り、もうこんな思いをすることはないと思っていたのに……。
    「美人の子も、なんでわざわざ隣に座るかね。ブスが引き立って気の毒に」
    「顔の大きさ一回りは違わね?ツイで検証してもらおーぜ」
    「ちょ、お前撮るならばれないようにしろよ」
    隣から気配が消えたので顔を上げると、イオナさんが私から離れ、男性たちにつかつかと歩み寄っていました。
    「ねえ、今ウチらのこと撮ったでしょ?見せてよ」
    「はあ?」
    話しかけられるとは思わなかったのか、男性たちは一瞬狼狽しましたが、すぐに下卑た笑みを浮かべて対応しました。
    「因縁つけんなよ。絶叫マシーン撮っただけだよ」
    イオナさんは細い腰に手を当て、もう片方の手を男性たちに向かって差し出しました。
    「じゃあスマホ見せな?写ってないなら見せられるよね?」
    「やだよ、それにウチらって何。アンタだけならともかくそこのブスまで撮るわけねーじゃん」
    「おい言うなよー。聞こえるし、可哀想じゃん」
    どっと笑いが起こります。
    可哀想なのは、この男性たちだ。私は強くそう思いました。
    「………」
    イオナさんは目を細めると、口の中で何事か呟きました。クズが、と言ったのだと後に教えてもらいました。
    彼女の手が瞬時に1メートルほど伸びて、離れた所にいる男性の手からスマートフォンを取り上げました。
    伸ばした巻尺が元に戻る時のような速さでした。私は視認出来ましたが、人間の男性には速すぎて、何が起こったのか見えていないはずです。
    「え……あ?」
    男性たちが茫然としている間に、イオナさんは端末を器用に操り、中に私たちの画像が入っていることを確認した模様です。
    「やっぱ撮ってんじゃんwそんなに写真好きならアンタらも撮ったげるよ、はい目線こっちw」
    カシャ、と音が鳴りました。
    撮られたと気づいた途端、男性たちは血相を変えてイオナさんに掴みかかりました。
    「てめえ!」
    「あれー何切れてんの?勝手にツイに晒そうとするなら、自分らも同じことされて当然だよねw」
    「消せ、いますぐ消せ!!てか返せ!」
    「はいはい、消しますよ、返しますよ、物理的に♪」
    バキリ、と無残な音がして、スマートフォンは二つ折りになりました。
    素手で機械を折り、地面に叩きつけたイオナさんに、男性たちは顔色を変えました。
    「な……お……」
    「お望み通り、機能を消して、土に還しましたwwwww」
    そう言い放つと、イオナさんはもう彼らに興味を失ったらしく、笑顔でこちらを振り向きました。
    「いやー、いい事した後は気分いいわー。行こっか、スミスミ♪」
    背後で男性たちが何事か喚いて、こちらに駆け寄ってくるのが見えます。
    イオナさんは座っている私の手を引き、実に楽しそうに「だっと!」と叫んで走り出しました。
    走り出す際の「だっ」という擬音と、「脱兎の如く逃げ出す」の脱兎をかけているのでしょうか。相変わらず、奇妙な言語感覚を持っている人です。
    「──ありがとうございます」
    「何が?」
    「でも、暴力はいけませんよ、イオナさん」
    私のためにしてくれたのだと判っていて、私はそんな可愛げのないことを告げます。
    イオナさんは怒りませんでした。代わりに、にやりと笑いながら言います。
    「そうだね、言葉の暴力ってほんとタチ悪いよねw」
    「もう……」
    私は苦笑しながら、彼女に引きずられるままに走りました。
    蓮っ葉な口調の裏に隠された、弱者への思いやりと義憤。こういう人だから、私はイオナさんを憎めないのです。


    「ねえ、やっぱ今日元気なくない?いつもならあんな連中、言葉でひとひねりっしょ」
    男性たちをどうにかまいた後、私とイオナさんは、観覧車に乗って夕暮れの街並みを見下ろしていました。
    ずっと口を利かない私を、イオナさんは心配して下さっているようでした。
    「テンチョーさんと何かあった?話すだけでも、気ぃ楽になるかも」
    店長さんと言いイオナさんといい、私はどうも、特殊な性癖を持つ美形に好かれる傾向があるようでした。
    生前も、男子には苛められてきましたが、女子の友達はそこそこいましたし、特に美人は心も美しい方が多く、私に同情し男子の攻撃から庇ってくれました。男子も、美人に嫌われることを恐れて私にそれ以上暴言は吐けませんでしたので、それを学習した私はなるべく美人の傍にいるように心がけていました。
    ですが、今は事情が違います。捕食系と寄生系は、交わらない方が良い。それは私たち液状人間の暗黙の了解でした。
    私たちは基本的に群れで行動しません。同じ寄生系ですら、友人など作らない方が良いのです。男性に対する憎しみの度合いは個体によって大きく異なり、それが諍いを生みます。また、気が合ったら合ったで、同じ宿主を取り合ったりして、後々面倒な事になります。
    わかってはいたのですが、男性たちの暴言から守ってもらえた私は、イオナさんに対していつものような拒否が出来ませんでした。所詮は元苛められっ子、優しくしてくれる相手に冷たくする事は良心が痛むのです。
    「あなたに話しても仕方ないことですが……」
    私は重い口を開きました。なぜこんな口のきき方しかできないのか、我ながら自分が嫌になります。
    「店長さんが爪切りの際に爪を散らかすので、新聞紙かチラシを敷いて下さいとお願いしたのです」
    「ふんふん」
    「そうしましたら何故か、私を遊園地へ連れて行くというお話になりまして……」
    下らないと一蹴されるかと思ったのですが、意外にもイオナさんは、手を叩いて大笑いして下さいました。
    「あるあるあるあるwwwwありすぎて困るわwwwww」
    「わかってくださいますか?」
    その反応に私は安堵しました。店長さんと奥様としか会話をしない生活を続けておりますと、私の常識が間違っているのではないか、と思う時があります。
    ですから外に出て、他の方の意見を聞くことは大切です。もっとも、私たちは基本的に男性に対して辛辣な生き物であるため、客観性には乏しいかも知れません。
    「それな。『また女が何か言ってる、適当に機嫌とっとけ』的ないつもの脳内変換な。男は話を聞かない生き物だからね、仕方ないねw」
    「私を宥めようとする思考自体は理解できなくもないんです。ですが、遊園地はどちらかと言えば店長さんが好きな場所であり、私の好きな場所ではありません」
    「言える。スミスミと遊園地の親和性のなさは異常」
    失礼なことを言われましたが、お互い様なので、私はそれには触れずにおきました。
    「機嫌を取るためには、相手の喜ぶことをしなければ意味はないと思うのですが、どうもあの方は『自分の喜ぶことは相手も喜ぶ』と思う傾向があるようで」
    「迷惑なプレゼントの押し付けとかな。で、喜ばないと切れるところまでテンプレなwww」
    「いえ、店長さんは私が思い通りの反応を示さないからと言って、怒ったり手を上げたりはなさいません。ご自分に至らないところがあるからだとお考えになったからこそ、遊園地に行くことを提案されたのでしょう」
    的は外れていますが、そのお気持ちだけは嬉しかったのです。
    「たくさんの男性とお付き合いされて来たイオナさんなら、数の問題で暴力的な方にも当たってしまうのでしょうが」
    「なにそれ皮肉?当たってるけどw昔リーマンと付き合っててさ~。ドライブして食事って言うからヒール履いてったら、その後展望台に行くとかで急勾配の坂道登らされたw最初に言っとけとwww」
    「まあ……。足は大丈夫でしたか?」
    「ニヤニヤ笑いながら『歩くの遅いな』って手ぇ差し伸べて来たwなるほど、これがやりたかったんだなと」
    「相手を不利な状況に追い込んで優越に浸る、ですか。小さいですね」
    自信に満ち溢れたイオナさんを少し困らせてみたいという気持ちは、他人に劣等感を抱きがちな私としては、何となくわかります。
    とは言え、思っていても行動には移さないのが理性ある人間なのですが、悲しい事に多くの男性は、好きな女性を苛めたり困らせたりして快感を得る事があるようです。
    化け物と化した今のイオナさんと私には戸籍がなく、また肉体による束縛を殆ど受けません。よって社会的抑圧を受けず、男性に面と向かって意見が言えるようになりました。
    女性を力で支配したい種の男性にとっては、私たちはさぞかし不快な存在でしょう。そんな女がこの世にいるはずがないと思いたい。だからこそ、普段は存在しないものとして看過されているのです。
    「ムカついたんでソッコー切ったら、案の定発狂してストーカー化してワロタわ。テンチョーさんもいずれそうなるんかね」
    「やめて下さい。全ての男性がそんな方と言うわけでは……」
    「どうだかwでもそっかー、それで当てつけにひとり遊園地?大人しそうな顔してやるじゃんwあの能天気なオッサンには、いい薬になったんじゃね?どうせ普段から、共働きなのに何もしないで、スミスミの家事スキルに頼りまくってたんだろうし」
    「……その通りです。これを機に、店長さんが反省して下さるといいのですけれど」
    「無駄無駄。反省する生き物じゃないよ、男ってのは」
    言い切ったイオナさんの、その瞳に浮かぶ冷徹な光に、私は胸を抉られる思いがしました。
    私たちの中でも、特に捕食系は男性への憎悪が深いのです。心ない男性によって強姦されたり、殺されたり、苦痛と絶望のうちに死を迎えた女性が、捕食系になる。
    その無念がわかるからこそ、私たちは捕食系を完全には嫌う事は出来ないのでした。
    「本当にそうでしょうか……私たちのしていることこそ、本当に正しいのでしょうか?」
    イオナさんは爪を気にしながら、私にちらりと視線をやりました。
    彼女の身につけているきらびやかな、私には何の素材で出来ているのかさっぱりわからない服装は、恐らく盗品でしょう。
    「イオナさんは、男性の作ったものを盗み、男性を捕食する悪い人です。でもその悪い人に、私は先程助けられました」
    「自分のためにやっただけだし、感謝される筋合いとかないし」
    顔をそむけるイオナさんに、私は言葉を続けました。
    「私は店長さんを非難して家を飛び出しておきながら、店長さんに買って頂いた衣服を身につけ、今ここにいます」
    「で?」
    何が言いたいのかと、若干苛々した様子のイオナさんに、私は救いを求めていたのかも知れません。
    「私には時々、何が正しいのか分からなくなります」
    「正しくなくたっていいんじゃん?誰もウチらを邪魔する奴なんていないんだし。その時その時で、自分が気持ちイイと思った事だけしてりゃいいの」
    快楽主義、ですか。本能に従う生き方、それはさぞかし楽でしょう。私がそれが出来るような性格なら、苦労はないのですが……。

    ガクン、と体が揺れました。
    何が起こったのかと私が窓から外を伺うと、全てのゴンドラが動きを止め、空中で立ち往生していました。
    しばらくして、無機質なアナウンスが流れます。

    『観覧車をご利用中のお客さまに、ご連絡申し上げます。ただいま、システム異常につき、一時運転を見合わせております。大変ご迷惑をおかけしておりますが、しばらくそのままの状態でお待ち下さい』

    途端にイオナさんは、目を輝かせて窓に額を押しつけました。
    「え、事故事故?面白れー」
    近頃の若い方は、どうして事件があるとこんな反応しかできないのでしょう。私はむっとして言いました。
    「面白いだなんて……不謹慎ですよ」
    「不老不死になって長いと刺激が欲しくてさー。って、あれ?」
    外の光景を見ていたイオナさんが、私の袖を引いて窓側に導きました。
    「見て見て、スミスミ。あれあれ」
    言われて私は外に目をやりました。私たちが乗っているゴンドラの斜め上、支柱の反対側のゴンドラの支えが外れかかって、風に煽られ、今にも落下しそうになっていました。
    乗っている男性たちの顔には、見覚えがありました。先程私たちを盗撮した方々です。
    「さっきスミスミを馬鹿にしたうんこマンたちじゃん。偶然w」
    「偶然のはずがないでしょう……怒りがおさまらず、追いかけて来たんですよ。平日で人もまばらな遊園地、私はともかく、目立つイオナさんを探し当てる事は容易です」
    ゴンドラはぐらぐらと激しく揺れており、中にいる男性たちにもそれがわかるのでしょう。恐怖に顔をひきつらせ、必死にゴンドラにしがみついています。
    イオナさんは爪をいじりながら、可笑しそうに笑い声を上げました。
    「あーこれはレスキュー呼んでも間に合いませんわ。天罰ってあるんだねwww」
    「何をおっしゃってるんです。彼らを助けないと」
    私が言うと、イオナさんは肩を竦めました。
    「スミスミ、頭大丈夫?あいつら助けて何の得があんの」
    「人命がかかっているんですよ」
    「助けたいなら止めないけどアタシはパス。てか、酷くない?アタシのさっきの好意を無にすんの?」
    「……先程はありがとうございました。でも彼らはもう、スマートフォンを破壊されると言う罰を受けたでしょう。罪に対して罰は1回で十分、過剰な罰は逆効果です。今でさえ彼らは、私を罵ったことを反省しているわけではなく、不審な少女に端末を壊された、と言う被害者意識のみを抱いているはずです。この上死んでしまえば、彼らは加害者ではなく被害者として、世間の同情を集め、最後まで自分が間違っていた事を知らずに逝ってしまう。私にはそれが我慢できないだけです」
    「ゴチャゴチャうっせーwアンタら寄生系が更生させたい(笑)とか抜かして、ちんたら時間をかけて男を教育している間に、人間の女は犯されて殺されてるのが現状だし。男がまともになるまで待ってる間に地球滅ぶわw」
    「そうとも限りません」
    「凶悪犯を片っぱしから殺してった方が、絶対早いって。テンチョーさんみたいな素直な男だけ残してさ」
    「暴力や恐怖による支配を、私は望みません。それでは男性と同じになってしまいます。私たち寄生系はあくまでも、男性の思想を内側から変えて行く」
    「言うても、容姿が不自由な女性(笑)に洗脳されるくらいなら、美人に殺された方がマシという気概のある日本男児(笑)も多いだろうしw」
    「そういう方は、お望み通りあなたが息の根を止めて差し上げればよろしい。ただし、いたずらに苦しませるのは悪趣味だと思います」
    「うん、やっぱ寄生系とは考え合わんわw」
    「そのようですね」
    私は冷たく答えて、バッグから新品のスマートフォンを取り出しました。
    「ちょ、それスマホの最新機種じゃん。そんなのまで持ってるの?」
    「店長さんは私に何でも買って下さいます」
    「あっそw良かったねwww」
    間に合わなかった時のために外部に助けを求める電話をかけ、私はイオナさんを置いて窓をこじ開け、ゴンドラの外に出ました。



    手を触手のように伸ばして、ゴンドラからゴンドラへ飛び移ります。
    観覧車に乗っている人たちが、驚いた顔で私を見つめています。
    『何だあれは、女の子が外にいるぞ』
    『腕が伸びてる。人じゃない、化け物だ』
    そんな顔をしている人々を見ないようにして、私は自分の仕事をする事にしました。
    彼らの真上に、ちょうど人が乗っていないゴンドラがありました。その窓を壊して中に入り、私は手にしたスマートフォンを固く握りしめました。
    彼らが閉じ込められているあのゴンドラの窓を割るためには、今のように触手を直接叩きつけて壊してもいいのですが、その強い衝撃でゴンドラが落ちてしまっては一巻の終わりです。とは言え、ここには小石もないですし、他に投げられそうな小さな固いものと言えば、これしかありません。
    イオナさんに大見得を切ったはいいものの、店長さんが買って下さったスマートフォンを壊してまで、彼らを助けたいかと申しますと……。
    迷っているうちに、男性たちの一人がパニックを起こしたようです。
    一人だけでも脱出しようと、自分から窓を割り、身を乗り出して、近くにある支柱にしがみ付こうとしていました。
    「何と言うことを……」
    しかし、窓が割れたのは幸いでした。その隙間から腕を差し入れて、彼らをこちらのゴンドラに引き上げる事が出来ます。
    「助けてくれ!」
    私と目が合った男性が、死に物狂いで叫びます。私が先程の不美人だとわかっているのかいないのか、そもそも手足が伸縮する人外であることは見てわかりそうなものですが、今は助かりたい一心でそれどころではないようでした。
    私は、支柱にしがみついている男性に腕を伸ばしました。しかし、あともう少しのところで手が届きません。
    槍投げや砲丸投げの選手は、普通の人よりも遠くに物を飛ばす事が出来ますが、その時の体調や風向きなどが関係して、常に思った通りの記録が出せるとは限りません。
    私たちとて同じです。人よりも手足を長く伸ばせても、何もかも自分の意思通りに、自由自在に動かせるわけではない。
    私たちの体は、思っている以上に物理的法則に縛られています。私の腕は彼らに届きそうで、届きませんでした。やはり心の奥底では、この男性たちを助けたくないという気持ちが働いているのでしょう。
    思い出したくもないけれど、忘れられない。私が、男性という名の怪物にどれだけ苦しめられて来たか。
    道を歩くだけで指差され陰口を叩かれる容姿。子供なら誰でもいいのか、登校中に遭遇した痴漢。それを友達に相談していたら男子に盗み聞きをされて、お前なんか誰も狙わないだろうと無意味な暴言を吐かれた事。せめて勉強だけでもと思い頑張って成績を上げても、それを妬んだ男子にまた苛められる。
    ある朝、机の上に置いてあった花瓶。破かれた教科書、『ブス』『ガリ勉』という落書き。先生に報告すれば、帰り道に待ち伏せされて、卑怯者、チクり魔、と石を投げられた事。
    大人に相談した事を卑怯と言われるのなら、個人を集団で攻撃する事も卑怯ではないのでしょうか。嫌いなら放っておいてくれればよいのに、わざわざ攻撃をしてくる理由がどうしてもわかりませんでした。
    店長さんだって、私を理解してくれるわけではない。とても優しいけれど、私が本当に欲しい言葉は下さらない。
    「おいっ、早く助けろよブス!殺す気かっ!」
    私が躊躇している事を感じたのか、男性は口汚く罵ってきます。
    その途端、男性の手がつるりと滑り、地面へと向かって真っ逆さまに落ちて行きました。
    友人の最期を目の当たりにし、残された男性二人が甲高い悲鳴を上げました。
    「うわあああああ!」
    「なんでだよ!なんで俺たちがこんな目に!」
    「あの女どもだよ!あの化け物が俺たちを殺そうとしてるんだ!」
    「いやだいやだ、死にたくない!母ちゃんっ!」

    なぜ、と私は思いました。

    ──私は一体、何のために、誰のためにこんな醜悪な生き物を助けようとしているの?

    伸ばした腕が、少しずつ元の位置に戻って行きます。ゴンドラにしがみついている男性たちの、絶望の表情が目に入りました。
    「ま……待ってくれ!」
    攻撃しようとせず腕を引っ込めたことで、ようやく、私が彼らを助けようとしていた事がわかったのでしょう。
    「化け物でも何でもいい、行かないでくれ、助けてくれ!」
    まるで蜘蛛の糸の犍陀多を見ているようだ、と私は思いました。他人の厚意すら無下にして、私欲ゆえに自滅して行く男性。
    その表情を見ていると、普段は胸の奥に押し込めているはずの悪意が、じわじわと私を蝕んでいくのが判りました。
    そう。男性なんて所詮、みな同じ。強い力を与えられながら、その力で他人を守る事ではなく、傷つけ殺す事しか考えられない哀れな生き物。
    そのまま死んでしまえばいい。そうして今まで苦しめて来た女性たちの恨み、その命で贖えばいい。
    私の心が闇に侵食されそうになった、その時のことでした。

    「しょーがないなぁ。もうワンチャンやるか」
    呆れたような声とともに、私の腰に、しゅるりと白い腕が巻きつきました。
    店長さんのものとは全く違う、若い女性の柔らかな腕は、しかし外見にそぐわない力で私の胴体を固定しています。
    「イオナさん……」
    来てくれたんですか、と呟く私を後ろから抱きすくめながら、彼女は「イオナちゃんマジ天使w」と自画自賛なさいました。
    「スミスミの体は攻撃に特化してないからね、手足が伸びにくいのは当然。それに生前からろくに運動してなかったっしょ?綱引きとかやったことある?」
    懐かしい言葉を聞き、私の心が徐々に現実に引き戻されて行きました。綱引き……何十年ぶりに聞く言葉でしょう。体育はいつも見学する事が多く、運動会も不参加でした。
    「ありません」
    私の否定に、イオナさんはからからと明るく笑いました。
    「だろうね。重い物を引っ張る時は、こうやって腰を安定させとかないと力でないし、ふらつくよw」
    「知りませんでした……」
    イオナさんの声と温もりを受けて自分を取り戻した私は、挫けかかっていた心を奮い立たせ、救助を再開しました。
    腕がまた、少しずつゴンドラに向かって伸びて行きます。男性の一人が、ようやく私の腕にしがみつき、その胴体にもう一人の男性が捕まります。
    ずしりと二人分の体重がかかり、よろめく私の体を、イオナさんがしっかりと支えます。
    「スミスミさぁ、親に甘やかされ過ぎじゃね?必要のない事は覚えない融通の利かない脳味噌だから、アタシの名前も忘れてたりするんだよ」
    「根に持ってらっしゃったんですか。意外と可愛らしいところがおありになる」
    「その言い方ムカつくwwwwww」
    怒った振りをしながらも、イオナさんは私を最後まで支えて下さいました。


    そうして、男性二人を、どうにか私たちのゴンドラに移動させる事が出来ました。
    まさにその瞬間、限界を迎えたゴンドラが、枝からもげる果実の如く、地面に向かって落ちて行きました。
    下の方で、強烈な破壊音と、人々の絶叫が聞こえてきました。
    子供にも安全な乗り物であるはずの観覧車が、まさか文字通りの『絶叫マシーン』になってしまうとは……。
    男性たちは、助かったことに安堵して力が抜けたのか、糸が切れたように気絶してしまいました。
    その股間からは、黄色の尿が浸み出し、床を濡らしていました。人が死に、自分たちも死にそうな目に遭ったのですから、まあ無理もありませんが。
    イオナさんは「レスキュー代」と言いながら、気を失った男性たちのズボンのポケットからお財布を抜き取っています。私は今度は何も口を挟みませんでした。
    「……さて、ウチらはこの辺でずらかるか」
    奪い取ったお財布をしっかりバッグに入れながら、イオナさんは笑ってそう言います。私もすぐに頷きました。
    「ええ」
    せっかく救助に成功したのに、このゴンドラまで落ちてしまっては意味がありません。
    手足の部分だけ液状化し、それをロープのように観覧車の支柱に巻きつけて、少しずつ地面に降りて行きました。残された人々が私たちを指差し、口々に何か叫んでいました。
    地上では、警察の方々が現場検証に来ており、ブルーシートをかけられた男性の遺体に人々が群がっていました。私たちは人目を避けて遊園地を抜け出し、暗くなった街に身を潜めました。
    「うまくいってよかったね」
    「ええ。一人は助けられず残念でしたが……」
    私に躊躇いがあったばかりに、あの男性を見殺しにしてしまう形になりました。
    今でも憎い事は確かですが、彼らにも家族がいることを考えると、後悔に胸が痛くなります。
    「過去は忘れろwそうだ、スマホ持ってるならLINEできるよね。やり方教えたげるからこまめに連絡とろーよ」
    「お断りします」
    「ケチwなんでww」
    「電話は用事がある時にかけるものです。メールだかLINEだか知りませんが、無駄な通信料は払いたくありませんから」
    「誰が金払ってると思ってんの?店長さんは私に何でも買って下さいます(ドヤァ)」
    「それでも、なるべく負担をかけないようにしたいんです」
    私が答えると、イオナさんは一瞬きょとんとした顔をし、それから珍しく、今まで見た事もないような優しい笑顔を浮かべました。
    普段は、笑っていても目が笑っていない方ですから、そんな顔が出来ることが私には驚きでした。
    「……それがわかってんなら、いいんじゃん?とりま早く仲直りしよーよ、テンチョーさんと」
    私の肩を軽く叩き離れると、闇の中にひらりと身を躍らせます。
    夜景に浮かび上がるキャラメル色の巻き毛が風に揺れて、獅子の鬣のように凛々しく、また美しく思えました。
    男性の血肉を食らう、とても恐ろしい女性のはずなのに、彼女たちのせいで私たちは立場を悪くしているのに。たまに人間らしい表情を見せたりするから、安易に憎ませてもくれません。
    「じゃあさよー。また会おーねスミスミぃ」
    去り際に連絡先を書いたメモを押し付け、イオナさんはひらひらと手を振って去っていきました。
    私はそのメモをしばらく見つめた後、そっとバッグにしまいました。
    捕食系のイオナさんと繋がっていることを知ったら、被食者である店長さんが不安になってしまいます。それでもメモを破棄しなかったのは、結局、彼女が遊園地にいた理由を聞きそびれてしまったからです。単に暇潰しのためか、私を探していたのか、あるいは他の目的があったのか、探ってみる必要があります。
    事故の原因がイオナさんだとは疑いたくありません。私などと仲良くなるためにあんな事故を演出したとしたら、それこそ暇人ですし、何の利もありません。しかし、特に理由もなく男性に対して酷いことをするのが捕食系の特性でもあり、そこが私たちにとっては悩みどころなのです。


    「……ただいま帰りました」
    三日後、私は飯尾家に戻ってきました。
    遊園地では散々な目に遭いましたが、イオナさんと別れてからは、前から行ってみたかった国立国会図書館に足を運んだり、自分のお墓をもう一度見に行ったり、山手線を一周したり、それなりに気分転換でき、楽しい休暇になりました。
    「スーちゃああああん!」
    店長さんはインターホーン越しに私の声を聞くと、奥の部屋から全速力で駆けてこられました。
    勢いよく扉を開け、私を引き寄せたかと思えば片足でバタンと扉を閉めると、そのことを咎める私に構わず、
    「良かった、約束通り三日で戻って来てくれた!心配してたんだよ!」
    と、私が人間の少女であれば圧殺されているのではないかと思わせる力で、ぎゅうぎゅうと抱きついてきました。
    いかに自分に自信がなく、他人が信用できない私でも、これほどまでに愛情を示されれば、疑うわけには参りません。しかし、愛情表現はもう少し控えめにお願いしたいものです。
    「ごめんなスーちゃん、俺が悪かった。彼方にも怒られたんだ、スーちゃんの言いたい事全然わかってないって。これからは爪を散らかさないようにする!」
    「いえ……私も言い過ぎました」
    爪の事はあくまでもきっかけの一つで、本来私が言いたかった事は、生活のあらゆる面での店長さんのだらしなさの改善要求なのですが、果たしてこの男性はそこまで理解して下さったのでしょうか。
    「そこで、俺はいい方法を考えた!」
    「はい?」
    店長さんは私を抱っこしたままリビングに連行すると、壊れ物を扱うようにソファに座らせました。
    「今日、仕事してる時に思いついたんだ。こうやって……」
    テーブルの上に置いてあった爪切りを、得意げに私に見せびらかします。
    「爪切りの刃の裏側に両面テープを張り付けておくんだよ!これで爪が散らからない!」
    「……」
    確かに言われてみれば、刃の部分の裏には、三日月のかけらがびっしりと張り付いていました。
    「切り終わったらこのテープをはがして、それからゴミ箱に丸めてポイ!」
    店長さんはそれを実践すると、これで全部解決だとばかりに「ね?」と笑いかけてきました。
    私は驚くより先に呆れてしまい、またしても二の句が継げませんでした。
    そう言えば、以前こんな内容の本を読んだ事があります。とある会社で『社内にゴミが散らかっているのを改善するにはどうしたらいいか』という問題を出したところ、女性は『自分たちで出したゴミは片付ける』『なるべくゴミは出さない』と提案したのに対し、男性は『ゴミ箱の数を増やせばいい』『業者に清掃を頼めばいい』と答える人が多かったと。
    自分たちに責任がある、何とか今手元にあるもので状況を改善できないか、と考えがちな女性に比べて、男性は自分を変えるのではなく他人を変えようとしたり、あるいは社会全体を変えようとしたり、何かしら環境を変化させることを望むのだと。
    これは男性に対する悪口ではなく、むしろその思想がいい方向に働く事が多い、だから男性には天才発明家が多いのだ、と締めくくられていました。
    前向きだと言うべきか、反省が足りない愚か者と言うべきか……。やはり彼らの考える事は、私には理解不能です。そこまでして女性のささやかな要求を無視したいのだと言う事だけは、充分すぎるほど伝わってきました。

    その後店長さんは、ネットで爪切りについて検索した結果、同じことを思いついた人の記事をお読みになったようです。
    「俺が元祖じゃなかったのか!!そうだよなー。俺が思いつくような事は、大抵他の人がとうの昔に思いついて実践してるんだよな。ぬか喜びだった……」
    そして、ふと思いついたように私の顔を見て、
    「そうだ、スーちゃんに爪を切ってもらえばいいんだ!最初からそうすればよかったんだよ!」
    とおっしゃいました。


    イオナさん、私はそろそろ、この人を見放しても許されるでしょうか。



    ムーン陥落12

    この記事を閲覧するにはパスワードが必要です
    パスワード入力

    【ヨリドコロイド】環状線浪漫

    東京は新橋の料亭『すいだ』の一人娘として、私は生を成した。
    穏やかで品のある兄と比べて、母も手を焼く、お転婆で生意気な気性であった。
    およそ可愛らしいとは言えない顔立ちだったが、父を畏怖する板前たちからはお嬢さんお嬢さんとよくしてもらい、また兄にも可愛がられた。たまに父の目を盗んで厨房に入り、つまみ食いをするのが楽しみだった。
    今にして思えば、あの頃が私の人生で最良の時期だったと言えよう。十二になった時、それまでの幸福だった生活は一変する。後継ぎとして育てられていた兄が病気で他界し、洟垂れ娘の私にお鉢が回ってきたのだ。
    まさに青天の霹靂だった。その日から、私は『すいだ』の若女将になる者として、父の元で厳しい修業を受けることとなった。
    多くの子供にとって、食事の時間は何よりの楽しみであろうが、当時の私にとっては拷問にも等しいものだった。
    二つの鉢に掬った少量の出汁を口に含まされても、どちらも大差ないもののように感じられる。そうして違いがわかりません、と素直に応えると、父は決まって渋い顔を作る。
    環、お前はそれでも料理人の娘か。そう怒鳴りつけられ、食事抜きと言う事もしばしばあった。味覚が鈍るからという理由で、菓子も取り上げられた。
    何度も家を飛び出そうとしたが、そのたびに駅で捕らえられ、頬を張られ、連れ戻された。同じ年頃の少女たちが、楽しげに女学校へ通うのを横目に、私は東京はおろか、家から出る事すら、父の許可なしには許されなかった。
    そうして二十四になった時、父の気に入りの板前と妻合わせられた。三郎と言う風采の上がらぬ男だった。彼もまた、父に逆らえず、打算で意に沿わぬ結婚をしたことが見てとれた。

    夫婦仲は冷え切ったものだった。結婚して一年後に、あの戦争が始まった。夫はすぐに徴兵され、父はわずかな食糧の中から苦心して献立を考案し、家族よりも先に客に料理を提供し続けた。
    その父も戦地に駆り出され、かつての料亭は閉店、母と二人だけで経営する雑炊食堂に姿を変える。私は今が逃げる時だと思っていた。既に一男一女をもうけていた私は、老いた母を抱えてなお、己の自由を諦めてはいなかった。
    空襲が始まった時、息子を背に抱え、娘の手を引きながら、私は病床の母を起こさぬよう身支度を整えた。
    環ちゃん、お願いだからお父さんの言うことを聞いて頂戴。そればかりを繰り返して私を庇ってくれなかった母に、今は微塵の愛情もない。眠っている母に別れを告げ表に出ると、空が紅に染まっていた。
    耳をつんざくばかりの人々の悲鳴と怒声。炎が行く手を塞ぎ、川には夥しい数の屍が浮いていた。お母さん、と娘が泣き叫ぶ。走る方角から火だるまの人間が飛び出してきて、逃げ場がないことを思い知らされた。
    走っても、走っても、炎の壁が迫ってくる。防災頭巾に、衣服に、赤い舌がまとわりつく。背中の子供も既に燃えているのだろう。
    泣きたいのはこっちだ。ようやく東京を出る自由を手にしたのに、その先に待つのは死でしかないのか。
    私の、人間の女性としての記憶はそこまでだ。




    薄く眼を明けると、焼死体に混じっていくつか蠢くモノの姿が見えた。
    火傷の跡一つない裸体をあらわにして、数名の若い女性が川辺をうろついているのだった。
    既に火は収まったとはいえ、街の惨状が目に入っていないわけでもあるまいに、誰もが生き生きとした表情をして、倒れた遺体から衣服をはぎ取っている。
    アラ、この方も起きたみたいだわ。もう大丈夫そうね。
    彼女たちは私を見下ろしてまた嬉しそうな顔をした。そのうちの一人が、男性の生首を持ち上げて見せつけて来た。これ、お食べになります。少しぐらいなら分けてあげますわよ。
    この人たちは狂っている。私はそう確信した。ここは羅生門の世界か、はたまた親を捨てた畜生が落ちる世界か。ならば煮るなり焼くなり好きにすればいい。夢うつつの中で私の意識は再び薄れて行った。



    再び目覚めた時、戦争は既に終わっていた。私はどういうわけか生きていた。
    水たまりに映る体は不細工なゴム毬のような形状で、表面はぬめり気を帯びていた。化け物になってしまった、それだけはわかったが、保護を求めようにも声が出ない。
    彷徨ううちに冬が来て、私は猛烈な空腹を覚えた。どこをどれほど彷徨っても、餌は見つからず、とうとう身動きが取れなくなった。
    そうしてどれほど時が経ったのか、真っ白な視界の中、誰かが私の体を齧っているのを感じた。
    しゃり、しゃり。
    人の肌にはあらぬかき氷のような音を立てながら、体が少しずつ削がれていっても、何ら苦痛や恐怖を感じないのが不思議だった。
    目の前に、顔を雪で真っ白にした男性がいた。有り難い有り難い、と涙を流しながら、私の肉に歯を立てる。
    近くで焚火の音がしていた。それで私はようやく、彼に食われている状況を理解した。
    動けない私の体を、遭難中の男が貪り、糧としているらしい。さりとて怒る気にはなれず、またそのような気力もなく、私は大人しく彼の胃袋に収まり、内側から温めてやることにした。

    男は、尾中兵多と言った。雪山からの奇跡の生還を、新聞はこぞってニュースに取り上げ、私はその辺りで初めてテレビというものの存在を知った。
    吹雪に遭って、食糧も底をつき、燃料も残りわずか、もう駄目かと思った時に、雪に埋もれた肉の塊が見えたのです。あれがなかったら私は生き延びられませんでした。
    尾中氏は何度もそう言っていたが、結局その肉の出所は、最後まで分からなかった。
    それもそのはずだ、その肉塊は未だに尾中氏の身体の中にいるのだから。彼に命を救われたのは、私も同じだった。
    化け物と化した私の餌は、男性の体内の不要物だった。私は、偶然にも彼に食べられたおかげでそれを知ることになり、結果、生き長らえたのだ。
    彼の体はとても温かかった。そして幼い頃に死んでしまった優しい兄に、少しだけ面影が似ていた。戦争で何もかもを失い、自由も奪われてしまった私が、恩人である彼を拠り所とするのは、ごく自然なことだった。
    それからの長い間を、私は尾中氏に寄生しながら過ごした。彼には妻も子供も孫もいたが、そんなことは当初は気にならなかった。
    東京の外に出て見たいという気持ちは、この頃から少しずつ薄れ始めていた。同じ状況の仲間とも出会い、あの戦争で私たちのような『液状人間』が大量に産まれたことがわかってきたからだ。
    液状人間の中には、人間の血肉を食らう存在もいるらしい。彼が襲われるかも知れないと考えると心配で、東京を居住とする彼の傍を離れたくなかった。
    彼が御家族と一緒に買い物に出かける時も、こっそりと背後からついていった。妻に優しく微笑みかける彼の姿を見ていると、胸が痛くなった。
    結婚記念日らしく、妻にハンカチを買い与えている。いつもありがとう、と笑う彼の前に躍り出て、私にもそれを言って欲しい、と叫びたくなる。
    彼の健康を支えているのは妻ではなく、体内にいるこの私だ。
    かと言って私の存在を彼に知られるわけにはいかない。まるで人魚姫のような葛藤が、私を苦しめていた。
    もし、吸田の環さんじゃありませんこと。
    背後からそう呼びかけられた時、振り返った私は目を疑った。私の実家のはす向かいに住んでいた女性が、空襲前と何ら変わらぬ美しい姿で佇んでいたからだった。
    まさか、生きてご近所さんに会えるとは思わなかった。懐かしさのあまり私は破顔した。されど彼女が口からはみ出させている男性の指らしき物を見た時、表情が強張るのが判った。
    何をしているの。
    震える声で問いかけると、彼女は高らかに笑った。
    ああ、あなた寄生系になってしまったのね。残念。お友達になれると思ったのに。
    私は混乱していた。そう言えば意識を失う前も、私に向かって生首を見せつけて来た女性たちがいた。
    彼女たちの無邪気な笑顔と、目の前にいる女性の顔が重なる。この人は捕食系になってしまったのだ。私とは似て非なる存在。
    次に私が取ったのは、買い物を続ける彼ら一家を、彼女の視界から隠すという行動だった。とは言え、匂いで獲物を見分ける私たちには、無駄な行動だったかも知れない。
    彼女はすぐに対象に気づいて、嘲笑うような笑みを浮かべた。
    あれが環さんの宿主ってわけ。うふふ。大丈夫よ、知り合いの大切な男性を襲ったりはしないわ。
    嫌な笑い方だ。妻がいる男性に寄生していることを嗤っているのかと思ったが、どうもそれだけではなさそうだった。
    怪訝な顔で見つめる私に、女性はおかしくて仕方ないと言ったように笑い声を上げる。
    私たちが食べられるのは不妊の男性だけなのよ。でも、あの方にはお子さんがいらっしゃる。これってどういうことなのかしら。
    私の顔から血の気が引いた。女性はおどけた表情で唇に人差し指を当てて、誰にも言わないわ、と言い置くと、茫然自失している私をその場に残し、鼻歌を歌いながら歩き去った。
    私は、背後を振り返った。デパートで買い物をする仲の良い一家、その子供や孫の顔立ちは、確かに彼には全く似ていなかった。



    知りたくもないことを知らされた私は、いよいよ彼の前に姿を現すことは出来なくなった。
    あの女性が嘘をついている可能性を必死で模索したが、似たような状況の仲間に会うたびに、その疑いは否定されていった。
    何も知らず孫を抱いて微笑んでいる尾中氏を見る度に、その妻に対する憎悪が膨れ上がる。
    恩人である彼の幸せを壊したくはない。彼が幸せならばそれでいいのだ。そう言い聞かせても、胸の憤りは収まらない。
    このようなことが許されていいものか。尾中氏の妻は夫を騙し、他の男との間に作った子を彼に育てさせ、何食わぬ顔で女の幸せを謳歌している。
    幸せな家庭を持てなかった不満、子供たちに対してついぞ母親らしいことが出来なかった不満を、ともすれば彼の妻にぶつけてしまいそうだった。
    しかし、それをすれば私は本当の意味での化け物になってしまう。人を殺める修羅に成り下がり、今度こそ地獄に落ちることだろう。

    そうしてまた、長い時が過ぎた。すっかり髪の白くなった彼は、もう登山が出来るような身体でもなく、近所を散歩しては、夕刻には床についてしまうことが多くなった。
    ある時、寝入っている彼の体に入ろうとする者が現れた。私はやんわりとそれを押し返し、侵入者の姿を確認する。
    今村スミレ、と彼女は名乗った。戦後の、苦労を知らないお嬢様といった印象の娘だった。彼女も私と同じ寄生系ではあったが、まだ特定の宿主は決めていないという。
    老婆心ながら、色々な男性の身体を渡り歩くのは不純である、捕食系から宿主を守り抜いてこそが寄生系である、と言うようなことを私は諭した。早く宿主を見つけるように説教しつつ、液状人間についての情報を開示した。
    相手の男性の条件、即ち不妊でなければ寄生できないことについては、敢えて話さなかった。彼女がいずれ宿主を見つけた時に、私と同じように苦しめばいいと思った。
    親元でぬくぬくと守られて、大事にされた末の病死だと言うから、この子は恐らく、結婚どころか恋人すら持ったことがないのだ。少しくらいは苦労するといい。
    そんな邪念を抱いていた罰が当たったのか、スミレちゃんは年上である私に、生意気にも盾ついてきた。
    ですが、環さん。仲間の捕食の邪魔をすることが、種として正しい行為なのでしょうか。
    私の愛想笑いが凍りついた。彼女は言うのだ、捕食系も同じ仲間であるには違いないのに、彼女らと対立してまで、それは守る価値がある男性なのかと。
    返す言葉もなかった。実際そう指摘されるまで、私は尾中氏に惚れていると思い込んでいたわけだが、今にして思えば彼への執着は、依存に近いものだったかも知れない。
    どれだけ宿主を思おうが、姿を見せない限り相手にその気持ちは伝わることはない。私が尾中氏に名乗りを上げないのは、彼のためを思ってのことではなく、単に自分が傷つくことが怖いからだった。
    捕食系から彼を守っているとは言っても、彼が襲われそうになった試しは一度もない。若いころならいざ知らず、老いて筋張った彼の肉は、もはや捕食の対象ではないのかも知れない。
    スミレちゃんはしばらく私の返事を待っていたようだが、やがて頭を下げると、静かにその場を辞した。
    彼女の気配が完全に部屋から消えても、顔から引きつったような笑みが、いつまでも消えなかった。
    お前は見た目が良くないから、せめて客に不快を与えないような笑顔だけは心がけろ。
    そう父に言われていた私は、産まれてから一度も、心から笑ったことなどなかった。
    本当は知っている。人と比べて私の方が不幸なのだと、そんな風にしか考えられない私などが、彼女に説教などする資格はなかった。
    ただ、私は誰かに認めて欲しかったのだ。私は今、愛する人を得てとても幸せであると。私のしていることは間違っていないと。
    男性の体に巣くう以外、他に楽しみもないのだから、せめて同族からの賞賛や優越と言った、見返りを求めるのはいけないことだろうか。
    うう、と尾中氏が唸った。
    枕元で交わされる私たちのやり取りに、目が覚めてしまったらしい。
    普段の私であれば、慌てて彼の中に入る。されど今は、スミレちゃんの残した言葉が、逃げようとする心を押しとどめていた。
    思えば私は、ずっと困難に背を向けてきたような気がする。父に母に、生き方を押し付けられた際も、はっきりと嫌だとは言えず、自活する力もないのに家を飛び出した。心配して連れ戻されるのは当たり前だったのだ。
    夫にも子供にも、本当は結婚したくなどなかった、子供などいらなかったと、そんな顔をしてばかりだった。心を開けば愛してもらえたかも知れないのに、自由と天秤にかけて、不幸だと思いこもうとした。
    今、私の前に横たわる愛しい男性が、ゆっくりと目を開こうとしている。妻子の手を優しく撫でるその手が、その眼差しが私にも向けられたら、と何度願ったことか。
    尾中氏の目が私を捉える。全裸で正座をしている、美しいとは呼べない女の姿に、彼はしばらく瞬きを繰り返していた。まだ寝ぼけて居るのかも知れない、と私はそっと半眼を伏せた。
    身を隠さなかったことを、後悔はしていなかった。スミレちゃんに言われるまでもなく、彼に対して秘密を抱える私の心は、既に限界を迎えていたのだ。
    彼の妻へ向ける憎悪は、日に日に膨れ上がる一方だった。あれはあなたの子供ではありません、そう伝えて彼を傷つけるくらいなら、きっとこれで良かったのだ。
    じきに彼は正気に返る。そして化け物と罵られ、何十年と続いた私たちの関係に終止符が打たれる。
    私が覚悟を決めた時、尾中氏は小さく呟いた。
    君だったのか……。
    彼は老眼鏡を手に取り、しげしげと私を眺めた。
    思いもよらない反応に、私の方が尻込みした。今更ながら裸を見られている事が恥ずかしくなり、胸を腕で覆い隠す。
    待っておくれ、もっとよく顔を見せておくれ。
    彼はそう言って、娘にそうするように身を乗り出し、私の頬を両手で挟んだ。
    抱き締められるかと思ったが、既に彼は老体であり、女性の体を見ても勃起もしない。本当に純粋な気持ちで、私が姿を現したのを喜んでくれているようだった。
    あの冬、私を食べたあの時から、彼は何者かが体内に留まっていることに気づいていたらしい。夜中に目が覚めた時、たまに若い女の亡霊のようなものが、枕元に立つことも。
    それからずっと体調が良く、この年まで病気らしい病気にもかかったことがない。それは君のおかげなんだろう。ずっとお礼が言いたかった、と彼は言ってくれた。
    ありがとう、と言われるたびに、私の胸が切なく疼いた。ああ、姿を見せて本当に良かった、と思った。私を挑発したスミレちゃんに、心から感謝していた。



    子供や孫が独立し、年の離れた妻も家を空けがちで、彼も寂しかったのだろう。
    環や、と呼んで可愛がってくれた。私も彼を旦那様と呼び、住み込みの女中のように身の回りの世話をした。
    蜜月はわずか1カ月で終わりを迎えた。父に鍛えられた私の敏感な味覚は、彼の内臓が弱っていること、死期が近いことを察していた。
    彼を看取ったのは、裏切り者の妻でも子供でもなく、赤の他人である私だった。必死に看病をする私に妻子宛ての遺言状を託すと、それから程なくして、彼は眠るように息を引き取った。
    老衰であった。まるで、私が彼の前に姿を現すのを待っていたかのようだった。
    どうせ遺産は妻子に渡るのだろう。私は、読み終えたら無論破り捨てる心づもりで、彼に託された遺言状を開いた。
    遺言状には、こう書いてあった。

    『長年にわたり、私を内側から支え続けて来てくれた吸田環へ、全財産を譲る  尾中兵多』

    私の手から力が抜けた。
    遺言状がひらりと畳に落ち、私もまた、狭い四畳半にへたり込んだ。
    嬉しいのか悩ましいのか、口元の複雑な笑みを抑えきれない。笑い出したいのに、涙が目の端に滲んでくる。
    彼は、知っていたのだ。私の存在はおろか、長年連れ添った妻の子供が、自分の子ではないことすらも。
    気づいていながら、死を目前にしても妻を責めることは一切せず、最後の最後に私を利用して、鮮やかな意趣返しをした。
    私は家人が留守なのをいい事に、畳の上に寝そべり、大声で笑い転げた。
    はしたないと眉を顰める父も、夫も子供も、ここにはいない。ただの一人の女になって、初めて心の底から笑った。
    よくも、こんな仕返しを思いつく。さすがは、私が初めて好きになった男性だけの事はある。

    吸田環って誰よ、と髪を振り乱した女が叫ぶ。
    誰よと問われても、参列者は誰も知らない。答えられる者は誰もいない。それは遠い昔に、既に死んだ女の名前だ。
    彼の妻は、伴侶の死ではなく、その財産の殆どが『吸田環』の名で養護施設に寄付されていたことの方を嘆いている。妻子の手元には、わずかばかりの金額しか残らない。子供に罪はないが、いい気味だった。
    参列者が帰った後、喪服の女は呟き続ける。他に好きな人がいたのに結婚させられた、ずっと辛かった、耐えていた。だから死んでも心は痛まない。でも夫が稼いだ金は私のもの。
    聞いていて他人のような気がしなかった。なるほど、あの女も私と同じ性質をしている。だから、心の底から憎いとは思えない。
    一生、いいえ死んでもそのまま、己の自由だけ見つめて生きて行くといい。父や夫に悪態しかつけなかった、かつての私そのままに。

    私は、用のなくなった尾中家を颯爽と後にした。
    本当に自由の身になった。これから先、どこへ行こうか。何をしようか。
    思う傍から、苦笑する。私はきっと、あれこれと理由をつけて、結局はどこへも行けないのだろう。そういう女なのだと、享年二十九にして初めてわかった。
    真っ直ぐに繁華街へ向かい、東京タワーの頂上に登って、街並みを見下ろした。焦土にされて二度と復興できないと思っていたのに、たった数十年で煌びやかな都会の喧騒が戻った。
    スミレちゃんたちの世代の努力の賜物だろう。昔の事など忘れたかの如く、次世代を乗せて走る鉄道の賑やかさ。山手線。品川、大崎、恵比寿に渋谷、新宿、池袋、大塚、田端、日暮里、上野、秋葉原、東京、そして新橋。

    私の人生は、ちょうどこの環状線のようなものだ。ぐるぐると同じところを回り続けて、きっと東京から出ることはできない。

    この国が今度こそ滅ぶ、その時まで。








    テーマ:奇妙な物語 - ジャンル:小説・文学

    【ヨリドコロイド】恋してEAT YOU

    ねえ、目を開けて。
    砂に横たわった愛しいあたしの半身。
    せっかく会えたのに、またあたしを一人にするの?

    「美衣」

    名前を呼びながら、あたしはそっと姉の唇に自分のそれを重ねた。
    啄み吸って、滑らかな舌を口内に侵入させる。まだ温もりのあるそれは舌先に微かな甘さを伝えてくる。
    何度息を吹き込んでも、心音は聞こえない。白目を剥いて泡を吹き、あたしと同じ顔を恐怖に醜く歪めながら、彼女はもう二度と起き上がらない。

    ねえ、美衣。
    どうしてあたしたち、こんなことになっちゃったのかな。

    二枚貝のように姉の身体にぴったりと寄り添って、唇を重ねたままで。
    そのまましばらくじっとしていた。産まれる前に母親の腹の中で、多分こうしていたように。

    次にあたしが気付いたのは、美衣をこのままにしておいたら、いずれ誰かに発見されて火葬されてしまうという事実だった。
    あたしがこんな体になってしまったからには、双子の姉である美衣も、なってしまうのかも知れない。
    あたしと同じ化け物に───液状人間に。
    甘い期待が胸に湧き上がる。美衣が蘇ってくれればあたしは一人ではなくなる。肉親と二人で、永遠に長い時を生きられるのだ。

    ───でも。
    別の光景が脳裏をよぎった。
    あたしの反対を押し切って沖縄の男と結婚し、あたしのことなど忘れたかのように幸せに暮らしていた美衣。
    そんな彼女が、果たして液状人間としての復活を喜ぶだろうか?

    (いやぁっ、化け物!こっちに来ないでえっ!)

    先程の悲痛な叫びが、耳を離れない。
    いやだ、見たくない。
    あたしを拒否し、化け物と罵る美衣なんて、もう二度と見たくない……!
    気付いた時には、口が大きく開き、姉の頭にかぶりついていた。
    そのまま立ち上がると、重い頭に反して軽い両足が、しばらくじたばたと宙を泳いでいた。
    ───が。
    もはや人とは違ってしまったあたしの口は、そのままごくん、と姉の体を丸呑みする。
    喉が凹むような感覚を残しただけで、姉の体はすっぽりとあたしの中におさまった。
    美衣は確かに、ここにいる。胃液で溶けてしまっても、消化が終わればあたしの血や肉の一部となり、あたしの中で永遠に生き続ける。

    そう、これで良かったのだ。
    美衣の死体が見つかれば旦那が悲しむ。
    双子の愛娘を両方とも失ったうちの両親だってもっと悲しむ。
    これで、いい。
    後は、あたしが美衣の代わりに人間として生きれば、誰も悲しまない。『入れ替わり』ならお手のものだ。

    満腹になった腹を揺すりながら、あたしは美衣の暮らす家へと歩き出す。
    歩くたびに胃の中の姉がたぷたぷと揺れ動き、とても優しい気分になった。





    恋人に求める条件は?
    と聞かれたら、普通の女の子は何と答えるだろう。
    顔がカッコいいこと?頭がいいこと?スポーツが出来ること?
    もちろんそれだって大事だ。
    けれどあたしたち──伊藤由布と美衣にとっては、何よりも譲れない条件があった。

    「おはよう、由布。こないだ借りたいって言ってたレコード持ってきたわよ」
    「あたしは美衣なんだけど」
    「ええ!?ご、ごめん、間違えたわ」
    「美衣、次は教室移動だよ。何してるの?」
    「あたしは由布だよ」
    「あー、また間違えた。あんたたちってホント何もかもそっくりよね、顔も声も性格も」
    「どうして高校別々にしなかったのよ。あたしなんて、今年に入って三回は間違えてるわ」
    「せめて髪型とか変えてくれない?制服だとマジで見抜くの無理だから」
    産まれた時から、あたしたちは周囲に気を遣わないといけなかった。
    漫画やドラマに出てくる双子は、片方が明るく片方が大人しく、また片方が成績優秀で片方が運動神経抜群、などと見事に個性が分かれているが、現実は違う。
    あたしたちは性格も趣味も成績も、何もかもが「同じ」レベルだったのだ。
    好きで双子に産まれたわけでもないのに、周りの人たちは、あたしたちを見分ける努力すらしないで、あたしたちだけに努力を強制してくる。
    紛らわしいから、髪型も服装も別々にするべきだ。学校も別のところに通うべきだ。
    大きなお世話以外の何物でもない。双子に生まれたばっかりに、あたしたちはどちらかが我慢をして、好きでもない趣味の服を着せられ、好きでもない学校に通わなければいけないの?

    「ねえ由布。結婚するなら、絶対にあたしたちを見間違えない人にしようね」
    「そうね美衣。普通は、好きな人の顔を間違えたりしないはずだもんね」

    だから、ボーイフレンドに求める条件はただ一つ。
    『あたしたちの見分けがつくこと』だった。



    異性と肌を重ねるのは嫌いじゃない。
    あたしの体、綺麗だと言ってもらえるのは嬉しかったし、年上の男性ならなおさら自信が付いた。
    今度の相手は三つ年上の大学生。月に二、三回デートして、そろそろ半年になる。やりたそうだったから食事の後にホテルに行った。
    「なあ美衣ちゃん。俺たち本格的に付き合わないか」
    煙草に火をつけながら、彼はそんなふざけたことを言う。
    すっかり気持ちが醒めていたあたしは、余韻に浸る彼をよそに、さっさとブラをつけて帰り支度をしていた。
    「うーん、それはちょっと。あなた『条件』満たしてないんだもの」
    「え……?」
    断られるとは夢にも思わなかったらしい。煙の向こうに見える間抜け面に、あたしは笑い出しそうになった。
    「あたしに双子の姉がいるの知ってるでしょう。先日紹介した」
    「あ、ああ……」
    「そっちが美衣で、あたしは由布なの。彼女を間違えるような人とは付き合えないわ」
    彼はしばらく馬鹿のように口を空けていたが、やがてその顔は見る見るうちに真っ赤に染まっていった。
    あたしたちは誰もが認める美少女だから、言い寄って来る相手には事欠かない。
    でも、付き合い始めてこういうテストをしたら、まず大抵の男は激怒するのだ。
    そりゃあ、騙したあたしたちだって悪いかも知れない。でも、「大好きだよ」なんて言いながら、他の女の上でハアハア腰を振っている自分はどうなの。
    間違えたからって、切れて暴力ってのはどうなの。その前にまず自分を恥じなさいよ。

    「おはよう。……由布、また駄目だったの?」
    頬に絆創膏を貼って登校したあたしを、美衣が落胆の目で見つめる。
    両親が共働きで家に帰ってこない日も多いため、あたしたちはここぞとばかりに夜遊びを繰り返していた。
    外泊した日は家に寄らずに、そのまま学校に向かうことも多い。なので、美衣と顔を合わせるのは今日初めてというわけだ。
    「おはよう。……うん、別れて来てあげたわよ。修羅場だったわ」
    まさか灰皿が飛んでくるとは思わなかった。あたしはまだ痛む頬を押さえつつ、教室の椅子に腰かける姉の美衣を見下ろす。
    「今度こそはと思ったんだけどねー。やっぱり男って誰でも同じかも」
    新しい相手と付き合う前に、まずあたしたちが双子であることを教えて、顔合わせをしておく。
    付き合っていくうちに相手は何故か、聞いてもいないのに『キミ達は本当にそっくりだけど、俺は由布ちゃんの方が好きだよ』とか、『美衣ちゃんの方が大人しめで、由布ちゃんの方が少し活発かな?俺にはちゃんと見分けがつくよ』などと血迷ったことを言い出すのだ。
    もうその時点でおかしくて仕方がない。どうして誰も彼も、あたしたちの見分けがつくなどと嘘を言い張るのだろうか。
    こういう男は、きっとクイズ番組でも『俺は絶対1番が正解だと思うな』と言っておきながら、いざ正解が2番だと、『あー、やっぱり2番だと思ってたんだよ』と抜かすのだろう。
    間違えたなら間違えた、わからないならわからないと、正直に言えばいいのだ。そんな素直な男性だったら、あたしたちだって何も、好き好んで意地悪などしない。
    現にクラスの女子は、あたしたちを見分けられなくても、「間違えちゃった」と笑って済ませる。あたしたちが意図的に入れ替わっていたずらしても、「もー、勘弁してよ」と許してくれる。
    なのになぜ、男という生き物は、嘘をついて見栄を張って、自分の間違いを素直に認められないのか。いちいち切れて暴力に訴えてくるのか。
    あたしたちは不思議で仕方がなかった。このテーマを夏休みの自由研究にしたら、けっこういい線いくんじゃないかと思われる。
    「たぶん『双子の見分けがつくかっこいい俺』に酔いたいんでしょうね。ついでに、『女ごときが俺様を騙すなんて許せない』って言うアレでしょ。早めに本性わかって良かったわ」
    「だよね。暴力男とは結婚できないし」
    あたしたちを、あるいは不良娘と思う人もいるだろう。ちょっと可愛いからっていい気になって、男を選び放題、遊び放題の淫乱双子と。
    でも、その辺のギャルと一緒にして欲しくない。あたしたちは遊びのためにセックスしているわけじゃない。未来の結婚相手を探しているのだから。
    妻を他の女と間違える夫と、一生添い遂げることなんてできない。でもあたしたちを見分けられる男性なんて、もしかしたら一生現れないかも知れない。双子などと言う、普通の女の子より重いハンデを背負っている分、厳しい道のりだと判っていたから、なるべく早く行動を起こす必要があった。
    「……るさい」
    くぐもった声が美衣の背後から聞こえて来た。
    そちらを見ると、机に顔を伏せた男子の頭が目に入った。どうやら美衣の後ろの席にいる男子が、あたしたちの話し声がうるさいと主張したらしい。
    「あ、ごめんね比嘉くん。やかましかった?」
    美衣に比嘉くんと呼ばれた男子はまだ寝ぼけているのか、二・三度いやいやをするように頭を振ると、再び動かなくなった。
    「由布、もう自分の教室に戻った方がいいんじゃない?そろそろチャイム鳴るわよ」
    「うん……」
    頷きながらも、あたしは比嘉くんの形のいい頭頂部から目が離せなかった。

    比嘉石矢くんは、一か月前に沖縄から転入してきた人らしい。
    色は黒く痩せ細っていて、顔の肉も薄いから、目だけがぎょろっと飛び出たみたいになってて、自分でもそれを気にしているのか常に伏し目がちな感じだ。
    休み時間は大抵一人で寝ていて、前の席の美衣とも殆ど話さない。沖縄と言ったら、十数年前にようやくアメリカから日本に返還された、文化の異なる南の島。常夏の太陽みたいなイメージしかなかったから、彼のような人間もいるのだと意外に思った。
    「なによ由布、今度は比嘉くんが気になるの?傷も癒えないうちに元気ねえ」
    あたしの気持ちは美衣にはお見通しだった。
    女子トイレで会った時、にやにやしながら皮肉を言われた。今にして思えば、あたしたちがお相手探し躍起になっていたのは、自分たちの寿命がそう長くないことを、本能で知っていたからかもしれない。
    「美衣、次の授業、替わってくれない?」
    「ええ?」
    あたしの突然の申し出に、美衣はさすがに驚いていた。
    学校で『入れ替わりごっこ』はたまにやっていたが、前日の打ち合わせもなしにこんなことを言いだすのは、初めてだったからだ。
    「あんた、その顔じゃいくらなんでもすぐばれるじゃない……」
    「こんなもんメイクすりゃごまかせるわよ」
    あたしは洗面台の前で絆創膏を剥がし、痛いのを我慢して青痣の上にコンシーラーを塗りまくった。
    「比嘉くんともっと話がしたいの。何かこう、キュンときたのよ。お願い」
    「全く、懲りないんだから……」
    かくして、美衣はあたしの教室で由布として授業を受け、あたしは今美衣として、比嘉くんの前の席にいる。
    授業なんて、適当に聞き流していてもそれなりの成績は取れる。両親が可愛い娘たちを放置していられるのも、あたしたちが成績を常に上位にキープしているからだ。
    それより今、気になるのはこの男子だ。背中にすぴすぴと規則正しい寝息を感じる。教科書を盾にして、また居眠りをしているらしい。授業中も休み時間も、一体どれだけ寝れば気が済むのか。
    「比嘉くん、比嘉くん。起きないと先生に怒られるよ」
    声をかけるが、彼は目を覚ます様子は無い。
    「では、19行目からの文章を、比嘉石矢、訳せ」
    言っているそばから、比嘉くんが指名された。あたしは座り直すふりをして椅子の背をガタンガタンと彼の机に当てた。彼はまだ起きない。
    「聞こえなかったのか、比嘉!19行目!」
    痺れを切らした英語教師が怒声とともに黒板を叩く。それで、ようやく比嘉くんはのっそりと立ち上がった。
    眠い目をこすっている彼に、教師は怒り心頭と言った感じだ。あたしは素早くノートに和訳を書いて破り、比嘉くんに渡した。
    (これ読んで。多分合ってると思うから)
    「……?」
    比嘉くんは怪訝そうな顔をしていたが、やがて言われた通りに、あたしに渡されたノートの切れ端の文字を音読した。
    「『彼女はより多くのビスケットを望んでいたが、彼はその要求に応えることが出来なかった』」
    「正解」
    悔しそうに教師は言い、おお、と教室がどよめく。
    「では次、22行目……」
    比嘉くんは罰の悪そうな顔をして着席すると、あたしをじっと見た。
    「……助かった」
    「どういたしまして」

    休み時間、比嘉くんがまた寝ようとしたので、「ちょっと話さない?」と引き止めた。
    彼は迷惑そうな顔をしていたけど(そんな反応も新鮮だった。男子はたいていあたしと話したがる)、さっきのことがあるので断れない様子で、しぶしぶあたしの話に付き合ってくれた。
    「比嘉くんって方言は使わないの?沖縄の人って語尾に『さぁ』つけるんでしょ」
    「土地による。爺さん婆さんはともかく、若者はあんまり使わないな」
    「普段はどんな音楽聞くの?沖縄民謡?」
    「馬鹿にするな。チェッカーズくらい聞く」
    「えー、意外」
    「……伊藤、なんだか今日は感じが違わないか?」
    「えっ」
    どきりとした。まさか、早くも見抜かれてる?
    だとしたらむしろ好都合、まっ先にあたしのお婿さん候補だ。未だかつて、制服姿のあたしと美衣を見分けられた人間はいないのだから。
    「そ、そうかな?どの辺が?」
    痣はメイクで隠したし、髪型も美衣とお揃いにした。どこもおかしくはないはずだけど。
    「今日に限って、やたら俺に親切だからさ。顔のいい奴にしか興味ないだろう、お前は」
    「そんなことないわよ!」
    むっとしてあたしは答える。あたしたちが男を選ぶ優先順位は、まずあたしたちの見分けがつくこと。続いて知性、性格、容姿の順だ。
    それに比嘉くんだって、言うほど外見は悪くない。男の顔って、至近距離で見るとニキビや髭の剃り跡だらけってことが多いんだけど、沖縄出身の比嘉くんは色黒のせいか、毛穴がほとんど目立たない。
    痩せている割には顔の艶もいいし、黒糖饅頭みたいな肌だと思った。目も、黒飴みたいな深い色をしてる。頬にキスしたら、黒砂糖の味がするんだろうか。じゃあ唇は、パイナップルの味……?
    「ねえ比嘉くん、これ小説の中の話なんだけどね」
    あたしが話を振ると、彼は気だるげにあたしを見た。
    「はあ?」
    「あるところに双子の姉妹がいたの。親も区別がつかないくらいそっくりなもんだから、二人ともしょっちゅう名前を間違えられて、だから結婚するなら自分たちを見分けられる人がいいって考えてたの」
    「……」
    比嘉くんは黙っている。
    小説の中の話ではないと気付いているのかも知れないが、敢えて突っ込まないのは、単にあたしたちに興味がないせいだろう。
    「で、姉にボーイフレンドが出来た時、妹は姉になりすまして初体験したんだけど、終わってから種明かししたら、彼が怒って暴力を振るってきたの。こういうのどう思う?酷いわよね?」
    あたしは身を乗り出し、彼に同意を求める。けれど比嘉くんは、仏頂面のままでこう言ったのだ。
    「男が怒るのは当然だろう。それは強姦じゃないのか」
    「え?」
    意外な反応に、あたしは瞬きした。
    「男女を逆にして考えてみろよ。女がボーイフレンドだと思ってセックスしたら、双子の弟だったんだぞ。詐欺罪と強姦罪で訴えられてもおかしくないだろう」
    「……」
    あたしは呆気にとられる。まさか、そんなことは思ってもいなかった。
    「何の小説かは知らないが、その双子の姉妹は最低だな。殴る蹴る程度じゃ甘すぎる。二人ともくたばっちまえばいいのに」
    よりにもよって本人の目の前で物騒なことを吐き捨てて、比嘉くんは再び眠りにつこうとする。
    あたしは、その椰子の実のような丸い頭を、前方から鷲掴みした。
    「比嘉くん!」
    「な、なんだよ」
    うろたえた瞳があたしを見る。それこそ、暴力でも振るわれるのかと警戒している顔だ。
    あたしは満面の笑みで、彼の手を握り強く揺さぶった。
    「言われて見ればその通りだわ。あたし、自分のことばっかりで相手のこと全然考えてなかった。強姦だなんてそんな発想は全然なかったわ、ありがとう気づかせてくれて!」
    「……あ、ああ」
    目を輝かせながら手を握るあたしに、比嘉くんは露骨に戸惑っていた。
    彼は恐らく、あたしを不快にさせるために言ったのだろう。だけど、あたしたち双子は、良くも悪くも非常に素直な性格だった。
    これまで多くの男と付き合いながらも、あまり男の恨みを買うことがなかったのは、遠慮なく物を言う率直さと、自分が悪いと思ったらすぐに謝るストレートさが理由だったのかもしれない。
    学校が終わると、あたしはさっそく、今まで別れた男たちに電話で連絡を取った。もちろん会ってくれない人もいたけど、数日かけて、一人ひとりに頭を下げて、強姦してごめんなさいと言った。
    ところが彼らは一様に面食らったような顔をし、そして「そういうことで怒ってるんじゃない」とまたもや逆上してきた。
    君たちなんて顔も体も似たようなものなんだから、どちらを抱いても同じこと。それよりも、騙していたこと、侮辱したことを謝って欲しい──ということだった。
    彼らの中に一人も、あたしに強姦されたと嘆いている男はいなかった。つまり、あの行為が強姦だと言うのは、比嘉くん独自の発想だったと言うわけだ。

    「……ね?比嘉くんって面白いでしょ?」
    事の顛末を美衣に報告すると、あたしと同じ思想を持つ美衣も、興味深げに頷いた。
    「なるほど、今までいなかったタイプよね。由布が好きになるのもわかるわ」
    女が男に殴られたとなれば、どんな理由があろうが女に手を上げるのは良くない、と責められるのが当たり前の世の中で、比嘉くんはまず「殴られる女に原因がある」と考える人だった。
    クラスで孤立しているのも、自分が暗いからではなく、クラスの連中がやかましくて合わないから。彼女を作らないのも、もてないからではなく、自分に相応しい女性が現れないから。
    とにかく自分が圧倒的に被害者で、他人が全て悪いと考えるような人で、それがあたしの眼には妙に新鮮に映ったのだ。
    単に性格が悪いだけだろうって?
    もちろん、そういう人間はいくらでもいる。でも、普通は嫌われるのが怖くて、おぞましい本心を隠そうとする。心の底では女が悪いと考えていても、女に嫌われたくないからと、表面上は女に媚びる男の何と多いことか。
    少なくとも比嘉くんは「嘘」はついていない。あたしたち双子の見分けがつくよ、そのくらい君が好きだよ、なんて、出鱈目を口にしたりはしない。わからなければ素直に「知るかよ」「わかんねえよ」と言うし、自分を大きく見せようという気が一切ないのだ。ある意味誠実な男ではないだろうか。
    「で、どうするの?比嘉くんに告白する?」
    美衣に問いかけられて、あたしははたと気づいた。
    そうか、好きになったら告白が必要なのか。今まで告白されてばかりだったから忘れていた。
    「でも比嘉くん、女に興味ないみたいだし……きっかけがつかめないわ」
    彼のことを好きだと自覚したら、何だか急に恥ずかしくなってきた。セックスなんて何度もしてるのに、比嘉くんとそういうことをすると考えたら胸が高鳴りだす。
    そんなあたしを見て、美衣はちろりと舌なめずりした。
    「じゃあ、あたしに最初に貸してよ。沖縄の味ってどんなのか、一度試してみたかったの」
    「え」
    「なに驚いてんの。こないだ別れたあたしのボーイフレンドは、由布が引導渡したんだし、今度はあたしの番でしょ?」
    相手を試すためのセックス行為は、交代で行っていた。でないと、いつもあたしだけが一方的に男に怒られる役割になってしまう。
    でも、今回ばかりは……。
    「だ、だめ!」
    思わず大きな声を上げてしまう。
    「比嘉くんの初めてはあたしが奪うんだから!美衣は手を出さないで!」
    友達さえいなさそうな比嘉くんに、彼女がいるとは思えない。あの反応からして、彼は間違いなく童貞だ。
    思いもよらなかっただろうあたしの反応に、美衣は目をまん丸にした。
    「……あんた、もしかしてマジだったの?」
    そうかも知れない。徐々に赤くなる頬を隠すために、あたしは俯いた。
    あたしたちは、仲の良い双子の姉妹。今までボーイフレンドだって共有してきたのに、そのことに何の抵抗も持たなかったのに、あんな美形でも何でもない普通の男子を、美衣にも渡したくないなんて思うのは初めてだった。
    それなら応援するわよ、と美衣は言ってくれた。その後も何度か『入れ替わり』を行い、本来は別のクラスであるはずの比嘉くんとの会話を楽しんだ。
    会話の中で、彼が卒業後も東京に残ることを聞き出してひと安心したのだが、結局彼とはそれ以来、何の進展もせずに時が流れて行った。
    このあたしが、好きな男に告白もできないほど臆病だなんて思わなかった。
    だって彼を騙してたんだから。クラスメイトの伊藤美衣だと嘘をついて、彼と会話をしているのだから。
    今さら伊藤由布だなんて名乗れるわけもない。ましてや、あんな卑猥な話を聞かせておきながら、好きですなんて。
    信じて貰えないどころか、罵倒されるのが目に見えている。




    無事に大学に合格した、高校三年生の春。
    あたしたちは、沖縄に卒業旅行に出かけた。

    「美衣、おなかすいた。本当にこの道で合ってるの?」
    「大丈夫よ……あ、あったあった。あの店だわ」
    蔦の絡まる石垣にかけられた、『やさちゅら』という木の看板が目に入る。
    沖縄では珍しい菜食専門のレストランと言うことで、美衣がぜひ行ってみたいと言い出したのだ。
    「こんにちはー。予約した伊藤ですけど」
    「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
    店はそれなりに繁盛しているようだった。米軍基地が近いせいか、アメリカ人っぽいの姿もちらほら見られる。
    30代くらいの男が、笑顔であたしたちに水とおしぼりを運んでくる。
    「いらっしゃいませ」
    「あ……どうも」
    美衣はメニューも見ずに、その男の顔を凝視していた。
    「どうしたの美衣」
    水を置いて立ち去る男の後ろ姿に見惚れている美衣に、あたしは嫌な予感がしていた。
    「……ねえ由布、今の人どう思う?」
    「どう思うも何も、至って普通の男でしょ。比嘉くんが50点なら、あれは40点てところね」
    「えー、落ち着きがあっていいじゃん。あたし、今回はあの人にするわ」
    そう、恐ろしいことに美衣は、旅行先で出会った男に一目惚れをしたのだ。
    「やめときなさいよ……」
    と言っているのに、美衣は注文ついでに彼を引きとめて、色々と質問攻めにしていた。
    「いつからこのお店を?」
    「三年前かな。元は居酒屋だったんだけど、父の後を継いで改装したんだ」
    「野菜専門のお店って貴重ですよね。失礼ですが、やっていけるんですか?」
    「海外の人はベジタリアンも多いからね、いい常連さんだよ。英語はまだ勉強中だけど」
    「あたしたち、英語は大の得意なんです。日常的な英会話くらいは出来ますよ!ねっ由布」
    「……そうね」
    「このお店気に入ったし、あたし、夏休みの間だけでもアルバイトに来ようかしら」
    「ははは、お嬢さんたちみたいな可愛い子なら大歓迎ですよ」

    相手は恩納仁といい、当時30歳の冴えない男だった。高校卒業したてのあたしたちピチピチギャルとでは、どう考えても釣り合いが取れない。
    「30なんておっさんじゃない。おまけに遠距離で自営なんて……どうしちゃったのよ、美衣!」
    反対しながらも、あたしは半ば諦めに近い感情を抱いていた。あたしだって人のことは言えない。
    恋愛っていうのは条件じゃないんだ。本当に好きになってしまえば、相手が不細工だろうがおじさんだろうが関係ない。あたしたちを見分けられなくても。
    美衣は東京に帰ってからも、相手にたびたび手紙を出していた。当時まだ、携帯電話は普及していなかったから、メールのやり取りなんて出来なかった。
    恩納仁からはすぐに返事が来ていた。そりゃあそうだろう、30男が幸運にも東京の美少女に好意を寄せられ、しかも相手は東京を出て離島に嫁いでも構わないなどと言っているのだから。今頃小躍りして、この機を逃すまいと必死になっているに違いない。
    楽しい文通生活を送っている美衣とは対照的に、あたしの心は高校時代に置き去りのままだった。
    卒業して半年近く経っていた。比嘉くんの東京の住まいや沖縄の実家はわかっているけれど、自分から連絡を取る勇気がない。
    大学には魅力的な男もいたけれど、彼らとデートしていてもつまらない。休み時間に、比嘉くんとたわいもない話をしている時が、一番楽しかった……。

    「由布、聞いて!恩納さんとお付き合いできることになったの!」
    あたしの気持ちも知らず、美衣は着実に、恩納仁との距離を縮めつつあった。
    妬んでいたわけではないが、どうにもうまく話が運び過ぎる。相手は年の離れたオヤジ、若い子なら誰でも良かったのではないか、と姉を案ずる気持ちが芽生えるのは当然だろう。
    「……恩納さんには『テスト』しなくていいの?」
    鼻歌を歌いながら彼に会いに行く準備をしている姉に、あたしはそう提案した。
    「え、なあに?」
    「だから、いつものテストよ。あたしたちが見分けられるかどうかの」
    美衣はトランクを閉じ、困ったように笑った。
    「そういうの、そろそろやめない?男の人の心を試すなんて、やっぱりいけないことよ」
    「今さらそんな……!」
    比嘉くんに叱られて以来セックスはしていなかったが、デート中に入れ替わって男の反応を見るテストは、定期的に続けていた。美衣はそれすらもうやめようと言い出す。
    「別に、あたしたちが見分けられなくたっていいじゃない。どうせ結婚すれば別々の場所に住むようになるんだし、そうすれば間違えられることもなくなるわ」
    まるで、あたしたちが長く一緒にいたこと自体が、間違っていたような言い方だった。
    そうじゃないでしょ、美衣。それでは周囲に迎合したことになる。双子だから周りの人間に気を遣って、違う個性を持ち、離れ離れに暮らすべきだと押し付けてくる、そんな世間に反発して、あたしたちは『テスト』を始めたんじゃなかったの?
    「本当にあのおじさんでいいわけ?パパやママだって、きっと反対すると思うわ」
    「愛があるから大丈夫よ」
    「瀬戸の花嫁じゃないんだから……。あたしは美衣を心配してるのよ。恩納さん、本当に美衣を大事に思ってくれてるの?若さ目当て、身体目当てだったりしない?」
    実は美衣にもその不安はあったのだろう。表情が少し曇った。
    が、すぐにそんな自分を恥じるように、あたしを見上げてきっぱりと言った。
    「恩納さんは今までの男とは違うわ。誠実で優しい人よ」
    「あたしたちが年齢ごまかしてて、実は30代でしたって言ったら、あの男はどう反応すると思う?きっとコロッと態度を変えて、騙されたって罵倒するわよ。今までの男みたいに」
    「そんなこと……!」
    姉の恋を邪魔するつもりはない。むしろうまく行って欲しかった。
    あたしの好きな人も沖縄、姉の好きな人も沖縄。これは運命のように感じていた。お互いにこれが最後の恋になるとわかっていたからこそ、失敗は許されなかった。
    あたしは姉のトランクの上に手を乗せて、不安を和らげるように語りかける。
    「美衣、あなたが本気で恩納さんと結婚するつもりなら、あたしに最後のテストをさせて」
    『10以上も年の離れた女の子と結婚できる』そんな邪な欲望に身を浸している男に、大事な姉を渡すわけにはいかない。
    恩納仁が本当に美衣を大事にしてくれるのかどうか、双子の妹として試す必要がある。
    美衣が幸せになるためなら、あたしは何だってする。姉の恋がうまくいったら、あたしも勇気が出せる気がする。
    「あたしを沖縄に行かせて」

    美衣は最後まで抵抗を示したが、結局は折れた。交際OKの返事はもらったものの、彼女もきっと、恩納氏の本心がわからず不安だったに違いない。
    姉が使うはずだったトランクを引きずり、あたしはホテルには寄らず、直接『やさちゅら』を訪ねた。『準備中』の札がかけてあるが、構わず扉を叩く。
    「恩納さん、お久しぶりです。伊藤美衣です」
    「美衣ちゃん!?」
    汚れたシャツを着た恩納仁が、慌てたように出迎える。
    あたしは彼の肩越しに、隙なく店内に目を走らせた。まだ朝も早い、女でも連れ込んでいたら即アウトだったが、その形跡はないようだ。
    「どうしたんだ、空港に迎えに行くって言ったのに……ああ、とにかく中へ」
    扉が閉められると同時に、あたしは背伸びして、恩納氏にキスをした。
    舌を入れようとすると、彼は驚いたようにあたしを離し、「やめなさい」と言った。
    ふん、紳士ぶっちゃって。あたしは心の中で毒づきながらも、しおらしい顔を作ってみせる。
    「どうして……?お付き合いしてくれるんでしょう?」
    いくら気取って見せても、男は下半身の欲望には勝てない生き物。この男だってそうに決まってる。
    美衣を騙して身体だけ食い尽して、年を取ったら捨てるつもりなんでしょう?
    「美衣ちゃん、君はもっと自分を大切にしなきゃいけない」
    恩納仁はあたしの肩に手を置き、真剣な眼差しで言った。
    「俺は、君の身体が目当てで、付き合いを承諾したわけじゃない。いつも明るくてハキハキして、素直でいい子だと思ったし、俺よりずっと英語がうまいのに、それを全く鼻にかけないところにも惹かれたんだ」
    「は、はあ……」
    恩納氏は、自分が予想していた人物と全く違った。あたしの誘惑に負けるどころか、あたしが迫力で負けてしまった。
    考えてみたら、親から継いだとはいえ潰れかかった店を立て直し、外国人や観光客を相手にし、そのために英会話を習っているというのだから、しっかりした男なのは当然なのだが……。
    「そこに座りなさい」
    彼は、茫然しているあたしを椅子に座らせ、昏々と一時間くらいお説教をした。
    「俺は、君が大学を卒業して、一人前の女性になるまで待つつもりだよ。もちろんその間に、君には他に好きな男が出来るかも知れない。俺はそれでも構わないと、ちゃんと手紙で伝えただろう。わかったら二度とこんなことしちゃいけない」
    「キスくらいいいじゃないですか……」
    ぶりっこを維持しながら恨めしげな声を出すと、笑いながら額にキスをされた。
    「これくらいならね。これ以上は俺の理性がもたないから駄目だ」
    何もかもが予想外だった。

    ホテルまで送ると言い張る恩納氏を丁重にお断りし、あたしは明日また会う約束を取り付けて、トランクを引きずって元来た道を歩き始めた。
    美衣には嬉しい報告ができる。彼女の言っていたように、彼はとても誠実な男性だった。あれなら、安心して美衣を任せられる。胸のつかえが下りたようで、足取りは軽くなっていいはずだった。
    だが……。
    あたしの手は市内の地図を握り締めている。赤く丸印をつけたところ、そこが比嘉くんの実家だ。
    『沖縄には、比嘉くんの実家があるのよね』
    『う、うん……』
    『しかもやさちゅらと同じ市内だって言うじゃない。ついでに会って来たら?』
    『卒業以来喋ってもないのに?あたしのことなんて覚えてないわよ、きっと』
    そもそも、比嘉くんはあたしではなく『美衣』と話していたことになっている。
    あたしとはクラスも別で認識もない。たまに美衣のクラスに遊びに行っても、口を利くどころか目も合わせたことのない、そういう存在だった。
    『駄目ねえ、由布ったら。あたしにはテストなんて偉そうに言っておいて、自分の恋愛は全然進展してないじゃない』
    美衣にもっともなことを突っ込まれ、あたしは沈黙するしかなかった。
    比嘉くんに告白……考えただけで胸が苦しくなる。大学は休み中とはいえ、彼が実家に帰省しているとは限らない。
    でも、彼の生まれ育った家を一度見ておきたい……。

    あたしは海岸沿いの道路を横断しようと、左右を確認した。
    車が来る気配はない。道路の向こうにタバコ屋があり、その近くにホテル行きのバス停がある。それにしても暑い。サンダルの底が焼けつくようだ。


    バン


    突然、視界が横転し、見開いた瞳には真っ青な空の色が映った。
    全身の骨がバキバキに砕ける音とともに、身体が灼熱のアスファルトの上に叩きつけられる。
    すぐに周囲は闇に包まれ、意識が薄れていった。





    熱い……。
    暑いのではなく、熱い。身体が焼ける。

    いや、実際にあたしは火葬されたのだろう。伊藤由布は、生きながら業火に焼かれた。
    それなのに意識ははっきりしていて、何故か視界だけが奪われている。
    闇を払うためにもがく手足も既に失われていた。あたしの肉体は確かに滅んだのに、意識だけはいつまでも消えない。
    暗く冷たい土の中に埋葬されて、どれほどの時間が経ったのか。

    あたしはようやく這い出ることを覚えた。酷く喉が渇いていた。
    這い出た先は墓地だった。まさか、自分の墓をこの目で見ることになるとは思わなかった。
    身体はもはや、人間であった頃の原形をとどめていなかった。全身が完全に液状化し、吐瀉物と変わらない姿になっていた。
    しばらく蹲っていたが、やがて雨が降り出した。身を濡らす水分のおかげであたしは少しだけ活動が可能になった。
    歩けなくとも、車体や動物に貼り付いて移動することを覚え、彼らに長距離を運んでもらうと、人目を避けて防空壕跡のような場所に身を潜めた。
    お腹がすいて動けなかった。再び意識が薄れかけた時、餌の匂いがしてくるのがわかった。
    近くにある肉の塊を、あたしは夢中で啜った。誰かが餌をここに置いてくれたのだ。飢えていたあたしはお礼も言わずにそれを貪り食い、そうしてようやく空腹を少しだけ満たすと、餌をくれた誰かに向かって「だれ」と言った。そして自分が口をきけるようになったことに驚いた。
    「もっと落ち着いて食べるさぁ」
    苦笑したような低い女性の声が、すぐ近くでした。
    餌のおかげで段々と視界が晴れてくる。正面に、四十歳くらいの女性がいた。
    服は着ていない。首から下が、ゼリーのような粘液で出来ている。明らかに人間ではないのに驚きがないのは、あたしも多分そうなっているからだろう。
    「あ……あり、がとう、ございます」
    ゆっくりと発声しながら、あたしは腹に力を入れて、生前の姿を思い出した。
    大きな目をしたアイドル顔、髪はゆるくパーマをかけたボブの、伊藤由布。念じれば液体だったはずの身体が徐々に質感を持ち始め、人間の美少女の身体を再生する。
    「あたしは、伊藤由布です。あなたがこの餌をくれたんですか?」
    防空壕の隅には、若い男性の死体が打ち捨てられていた。彼の内臓は食い荒らされている……その一部を、この女性はあたしに分けてくれたのだ。
    「そうだよ。あんたが動けなくなってるのを見たからねぇ。お仲間なんて久しぶりさぁ」
    島袋ウイさんと名乗ったその女性は、戦時中に仲間たちとこの防空壕に逃げ込んだところを、米軍の火炎放射を受けて亡くなったのだという。『液状人間』として蘇ったのは彼女だけで、以来ずっとここを拠点として一人で暮らしているらしい。
    あたしは彼女に、色々なことを教わった。液状人間には主に『寄生系』と『捕食系』がいること。
    あたしたちはもう、『捕食系』という種に生まれ変わり、不妊の男の人を食べないと生きていけない身体になってしまったこと。
    沖縄はウイさんの縄張りだから、余所者であるあたしは速やかに出て行って欲しいということも、やんわりと言われた。
    「それなら、なぜ、あたしを助けてくれたんですか?」
    「あんたはまだ若いからさぁ。若けりゃやり直しもきく。あたしに受けた恩を忘れないで、いずれあたしを助けておくれね」
    「……?」
    あたしにはその言葉の意味はわからなかった。
    ウイさんに急かされるまま洞窟を出て、しばらくあてもなく街を歩いた。夜になったら民家や商店に忍び込んで服やメイク道具を調達、人に擬態して、食べられそうな男性を探し続けた。
    沖縄に知り合いはいないが、比嘉くんと恩納氏には顔を知られているから、化粧もして髪型も変えないとまずい。空港のトイレで化粧しながら、私は少し笑った。あれほど美衣との差別化を嫌がっていたあたしが、自分から進んで美衣とは似ても似つかない恰好をしているのがおかしかったのだ。
    死んでから年月が経っている。あたしの死は、世間ではどのように扱われているのだろう。確か、道路を横断するときに、車に跳ねられたような気がしたんだけど。
    そして、図書館で、あの日の翌日の新聞記事を確認した。
    沖縄で19歳の少女が米軍の運転する車に跳ねられて死亡───これが、あたしだ。
    両親は訴訟を起こそうとしてくれたらしいが、日本政府から圧力がかかり、警察は及び腰、そのうち当の米兵は国に帰ってしまい、泣く泣く諦めたという顛末だった。
    実際この事実を突きつけられるまで、あたしはあまり死んだという気はしなかったが、こうして文字になっているのを見てやっと、自分が化け物に生まれ変わったのだと思えるようになった。
    双子の妹を失った美衣の悲しみと、両親の嘆き。
    そして比嘉くんと二度と会えない身体にされた辛さを、今になってようやく実感した。
    「ふふ」
    あたしは薄笑いを浮かべた。犯人が何ら裁きを受けず解放されたと知って泣きたい気持ちだったが、既に人間でなくなったこの身は、一滴の涙を流すことも許されなかった。
    「ふふ、ふ……あはははっ」
    黒い感情が胸の奥底で渦を巻く。捕食系の残酷な本能が、押さえても押さえても湧きあがってくるのを感じていた。
    警察に忍び込み、当時の事件のデータを閲覧し、米軍基地に潜り込み───以下略。
    英語を勉強しておいて本当に良かったと、この時ほど思ったことはない。飛行機に侵入すれば、海の向こうの国にだって行ける。何物にも縛られない自由な生き方を、あたしは皮肉にも死んでから手に入れたのだ。

    「ウイさん」
    アメリカから帰国したあたしは、踊るようにして、沖縄のウイさんの元へ向かった。
    自分を殺した相手に復讐を果たしたことを、捕食系の先輩に一刻も早く伝えたかったのだ。と言うより、他に話ができる相手もいないのだが。
    彼女が暮らしている防空壕跡を覗き込む。ウイさんは体力を温存するためか、液状になって丸くなっていた。
    沖縄は本州より人口も少なく、そうそう都合良く餌が見つかるわけでもないのだろう。そんな状況なのにあたしに餌を分けてくれた彼女には、いくら感謝してもしきれない。
    「ウイさん、伊藤由布です。お久しぶりです」
    明るく声をかけると、暗がりの中でもぞもぞと彼女は動いた。
    「……ああ、あんた。まだ沖縄に……?」
    出て行けと言わなかったか、と呟き、億劫そうに人間の姿になる。
    しかし、あたしが口から『お土産』の肉塊を吐き出すと、ごくりと喉を鳴らして即座にかぶりついた。
    「ん……ありがとうね。お礼なんて期待してなかったよ。由布ちゃんって言ったか、最近の若い子にしては、礼儀がわかってるね」
    「こちらこそ。あのねウイさん、あたし米兵をやっつけたのよ」
    誇らしげに言うあたしを、ウイさんは餌を食べるのをやめて見上げた。
    「……彼は不妊だったのかい?」
    「ううん。普通の奴だったけど、あたしを車で跳ねて殺したのに、のうのうと生きてたのよ。だから復讐のために」
    ウイさんは深く息を吐いた。
    「厄介なことをしてくれたね。由布ちゃん、あたしたちが殺生していいのは、種なしの男だけだよ。気持ちはわかるが、それ以外の人間には手を出しちゃいけない」
    称賛ではなく否定の言葉を吐かれ、あたしは狼狽した。
    「ど、どうして!?喜んでくれると思ったのに。ウイさんだって、戦争でアメリカ人に殺されたんじゃない!」
    英語が好きだったのは文法的に面白いのと、これからの時代には英語が必要だからと思っただけで、別にアメリカ人に憧れていたわけではない。
    あの国にはライバルのような気持ちを抱いていた。日本だって負けていないと。そして今回のことで、自分だけでなく、彼女のためにも復讐したような気になっていた。
    生前の姿になったウイさんは、長い黒髪をかき上げて、憂いの表情を見せる。以前はじっくり観察する余裕はなかったが、良く見ると目鼻立ちのはっきりした琉球美人だった。
    「考えてもごらん。あたしを殺した兵士たちだって、爺さんになってまだ生きてる。この身体を使って、復讐しようと思えばできるんだ」
    「それなら、どうして……」
    「せっかく悪い夢が終わったのに、アメリカに手を出したらまた戦争になる。あたしらは、もう誰も恨んじゃいない。争い合い、憎み合うんじゃ、男の繰り返してきた歴史と同じだ」
    「………」
    「あたしらは、男と同じことはしたくないんだよ」
    ウイさんの言葉が、胸の奥に深く重く沈んでいく。
    新参者のあたしのしでかしたことが、日米関係を悪化させるかも知れない。そこまで考えていなかった、自分の浅はかさに嫌気がさした。
    ウイさんは戦争の犠牲者で、死してもなお耐え忍んでいると言うのに、戦後の平和な時代に育ったあたしが、激情に駆られるまま『対象外』の男を殺めてしまうなんて。

    彼女に合わせる顔もない。あたしは陰鬱な思いで、かつて訪れた『やさちゅら』に向かっていた。
    姉の美衣が恩納氏と結婚していることは調査済みだった。今頃は幸せにやっていることだろう。
    遠くからでもいい、最後に姉の美衣を一目見て、それから本州にお仲間を探しに行こう。東京なら、液状人間の数も多いはず……。
    夜の匂いに交じって、ふわりとしたいい匂いが鼻をくすぐる。それは『条件』を満たした男の匂いだった。
    『やさちゅら』で食事を終えた若い男の客が、ジーパンのポケットに手を突っ込みながら出てくる。彼の全身から、食べてくださいと言わんばかりの香りが立ち上っている……。
    間違いない、不妊男性だ。あたしたちに食われるためだけに存在する命。ちょうどいい、何かお腹に入れて忘れたい気分だったから。あたしは悲しみと笑いの交ざった表情で、捕食対象に近づいた。
    「おっ……あれ?奥さん……?」
    男性客は困惑していた。無理もない、あたしの顔は美衣とそっくりなのだから。今しがた出てきた店の奥さんが、いつの間にか自分の前方に回り込んでいる、一瞬そんな錯覚を受けたのだろう。
    ただ、あれから10年近い時が経っていた。年の離れた妹にも見えたかも知れない。
    人目のない今のうちに、どこかへ引きずり込まないと。あたしは男の首筋に噛みつき、騒がれる前にその喉笛を食い千切った。
    「ひゅ」
    男は気道から変な音を出して即死した。彼には何の恨みもないから、苦しませずにひと思いに殺してあげるのは、あたしなりの情けだった。
    「お客さん、お財布忘れ……ひっ!」
    背中に懐かしい声を浴びて、振り返る。
    男の体を抱えて海に移動しようとしたあたしの背中ごしに、死に別れ……いや、生き別れた双子の姉の姿があった。
    美衣だ。
    ずっと会いたかった、あたしの双子の姉だ。
    随分と大人っぽく、また綺麗になっている。あたしは19のまま時を止めているのに、彼女は既に30近い大人の女性になっていた。
    店のエプロンをつけて、夫を支えて懸命に働いている様子が、その恰好だけで見て取れた。
    懐かしさのあまり、あたしは男の身体を放り出して微笑んだ。口から男の鮮血を滴らせながら。
    「美衣」
    遠くから姿を見るだけで、満足するはずだった。本来なら、姉と目が合った途端、逃げなければならない立場のはずだった。男を食うまでは、あたしはそのつもりだった。
    だが、男の血肉があたしを酩酊させ、狂わせる。捕食をしている間、液状人間は理性を失い、ただの獣になる。
    心を殺し、己の中の人間性を排除しなければ、人を食らう嫌悪感や罪悪感で押しつぶされてしまうからだ。
    「美衣……わかる?あたしよ。由布よ」
    ぽたり、と血痕が地面に落ちる。
    由布は後ずさりした。来ないで、とその唇が恐怖に満ちた言葉を紡ぐ。
    彼女は店の中ではなく、夜の闇に向かって走り出した。店の名前が印刷されたエプロンがばたばたと風になびく。
    「どうして逃げるの、美衣」
    あたしも彼女を追いかけた。追いつくのは簡単だった、液状化した腕を長く伸ばして、姉の頭をがっしりと捕まえる。
    「きゃああああ!助けて、あなた、助けてえええっ!」
    店の中に逃げ込まなかったということは、恩納氏は多分、店を空けているのだろう。どこかに買い出しにでも出かけているのか……まあ、いい。
    久しぶりの姉妹の談話に、第三者の口を挟まれたくない。
    「美衣、わからないの?由布よ、あなたの双子の妹の」
    顔を近づけて囁くと、美衣は身をよじって拒否を示した。
    「いやぁっ、化け物!こっちに来ないでえっ!」

    ───化け物?
    ああ、そうか。人間の女性から見たらあたしたち、化け物なんだっけ。

    だけど、美衣の口から言われると酷く傷つく。だって同じ顔じゃないの。
    確かに今はあたしの方が幼いけど、気持ちはあの頃と変わっていないつもりなのに。
    何が変わったの、美衣?結婚して変わったのはあなたの方じゃない?

    「美衣、話を聞いて。あたしは……」
    「いやぁ!」

    激しい拒否を受け、あたしは思わず美衣の頭を離してしまった。
    バランスを崩した彼女は、海へと続く砂浜へと降りるための小さな階段を、仰向けに転げ落ちていく。
    手足がびくびくと痙攣し、口からは白い泡が溢れた。しばらく痙攣していた彼女は、やがて息をするのをやめた。



    ねえ、美衣。
    どうしてあたしたち、こんなことになっちゃったのかな。

    胃袋の中で揺れている姉に、あたしはそっと語りかける。
    姉妹でずっと、一緒にいたかった。嫁ぎ先も近くが良かった。
    好きになった人がともに沖縄の人で、一緒にお嫁にいけるかも知れないなんて、少しだけ思ってみたのに。

    『その双子の姉妹は最低だな。二人ともくたばっちまえばいいのに』
    高校時代の、比嘉くんの言葉を思い出す。
    彼は、預言者か何かだったのだろうか。まさにその通りになっちゃったわね。
    でも、あたしは、美衣の分まで生きなければならない。
    彼女を殺し、米兵を殺した罪を背負って、人としての生を全うしたい。

    恩納氏との夫婦生活は順調だった。
    美衣を食い、取りこんだことで、あたしは彼女の容姿も記憶も引き継ぐことができたからだ。
    今のあたしは19歳ではなく、28の大人の女の身体をしていた。それゆえに何の疑問も持たず、『愛してるよ美衣』と呑気に腰を振る恩納仁。嬉しいと答えながらも、内心は「見損なったわこのクソ親父」と罵っているあたし。やはり美衣とあたしを区別できる男は、存在しなかったのだ。
    じれったく、腹立たしく、伊藤由布であることを見抜いて欲しいのに、見抜かれたらこの生活は終わる、その矛盾。
    美衣が愛したこの男を、美衣に代わって愛してあげたいのに、それすらも出来なかった。

    あたしの心には、常に比嘉くんがいたから。
    別の男を好きになることなんて到底無理だったのだ。

    『比嘉くん、第二ボタンくれない?』
    『は?なんで伊藤に?』
    『……もしかして、第二ボタンの意味知らないの?』
    『知るかそんなもん』
    『卒業式に女の子にボタンをあげると、将来出世するという伝承があるのよ(嘘だけど)』
    『ふーん』
    『比嘉くん、ほんとに何も知らないのね』
    『うるさい。ほら、あっちでお前の取り巻きの男どもが待ってるぞ、さっさと行ってやれよ』
    『どうせ制服なんてもう着ないでしょう。記念にボタンちょうだい』
    『たく、面倒だな……こんなもんが欲しけりゃやるよ、そら』
    『きゃあ!』
    『はは。ばーか』

    空中に放り投げられた第二ボタンを取り損ねたあたしを見て、比嘉くんは初めて笑った。
    桜の花びらが散っている中で、眩しく見えたあの笑顔。
    傍にいて欲しかった。あの辛辣な言葉も、口調も、意地悪で根暗な性格も、あたしだけのものにしたかった。




    「……比嘉くん?もしかして比嘉くんじゃない?」

    初恋の相手の姿を目の前にして、あたしは信じられない気持ちでいた。
    東京で就職して、もう二度と、沖縄には戻ってこないと思っていた。
    恩納美衣として家庭を持っているあたしは、家事や夫の手伝いで忙しく、今までのように自由に全国を行き来することは出来ない。
    だから、諦めもついたのに───こんな形で再会できるなんて夢にも思わなかった。

    高校時代より少しだけ背が伸びていた。失業して、よりやつれた様な面持ちになっていたけれど、そこがまた憂いを帯びた感じでそそられる。
    何より……彼は、『条件』を満たしていた。高校の頃は、液状人間ではなかったから気付かなかったけど……。
    比嘉くんは、子供を残せない身体なのだ。恐らく彼はそれに気付いていない。彼を傷つけたくはないから、知らせない方がいいだろう。命の尽きるその時まで。
    液状人間、いわばスライムになったあたしを見て、恐怖に怯える比嘉くん。ぞくぞくする。
    嫌がって、半泣きになって手足を振り回す彼の身体を、少しずつ体内に取り込んでいく快感。焦がれ続けてきた存在が、ようやく手に入る喜びと、相反する切なさ。
    こんな形ではなく、正面から告白して、恋人同士になりたかった。でもそんなこと、今さら言えない。
    言ってどうするというのか。あの時あなたと話していたのは由布だったのよと、人でなくなったこの身体が言って、何の意味があるのか。
    「比嘉さん」
    よそよそしい呼び方をして、まるで初対面であるかのように振る舞うあたしの心が、目に見えない涙を流す。
    比嘉くんは既に寄生系スライムと邂逅し、彼女を凍結させていた。寄生系がそこまで拒まれるなら、捕食系であるあたしは言うに及ばない。今のあたしに出来ることは、純粋な悪役を演じたまま彼を葬ることだけだ。
    「被害者ぶるのもいい加減にしなさい、比嘉石矢」
    辛いのはあなただけではないと、言い訳のように囁くうちに、彼の体は少しずつ溶けて、あたしと一つになっていく。
    でも大丈夫……あたしが『産み直してあげる』。仕事を辞めて沖縄に逃げ帰ってきた彼。人生に疲れていた彼。そんな彼に、今までとは違った新しい人生を歩ませてあげたい。それが、彼に出来るあたしの精いっぱいの償いだった。
    『若けりゃやり直しもきく。あたしに受けた恩を忘れないで、いずれあたしを助けておくれね』
    二度目に会った時、あの言葉の意味を尋ねたら、ウイさんは密かに教えてくれた。
    若ければ、スライムでも妊娠は可能なのだ。子供を授かると、その肉体は人間の女性に生まれ変わり、捕食は不可能になると聞いた。
    あたしが産む子供は、間違いなくハーフスライムだろう。人間と液状人間、両方の血を引く存在だ。
    人間とスライムの架け橋となり、ウイさんのような女性を救うことが出来るかも知れない。だがその一方で、想像もつかない苦しい人生を歩ませることになるかも知れない。

    ごめんなさい、比嘉くん。
    正直なあなたに、何度も嘘を付くようなまねをして。最後まで偽りの自分を演じてごめんなさい。
    でも、あの高校時代の思い出があったから、あたしは今まで生きて来られた。
    そのささやかな思い出を、自分から汚したくはない。告白して拒まれるよりも、美しい記憶として永遠に取っておきたい。

    我儘な願いとともに、あたしは膨らんだ腹をさすり、停めてある車へと歩き出した。
    「さあ、一緒に帰ろうね……」

    お腹の中の好きな人に、ラブユーではなく、イートユーだけを告げながら。




    テーマ:自作連載小説 - ジャンル:小説・文学