遠くの方に、千切れた私の右手首が見えた。
手首だけじゃない、膝から上も感覚がない。私を跳ねた大型トラックの、ナンバーだけでも確認しようと首を動かすが、途端に全身に激痛が走った。
ああ、もう駄目だ。これまでの人生が走馬灯のように──ちなみに私の苗字は相馬と言う──目の前に浮かんでは消えていく。
『お前、キスも駄目なのか!?付き合ってもう2カ月だぞ!』
うるさい。たかがアッシー君のくせに何を勘違いしてるの。
美しい私に触れられるのは、私と結婚する相手だけ。それまでの男は所詮、私を目的地まで運び、服や宝石を貢いでくれるだけの奴隷のような存在。
未来の夫となるハンサムで三高の男性以外には、指一本触れさせない。
『ほら、あの子よ。今年のミス東大に選ばれた相馬千砂』
『まさに才色兼備ねえ。いつも清潔できちんとしてて、女として憧れちゃう』
そう、いつか現れる王子様のために、女は常に綺麗にしていないといけないの。
磨いて、保って、言い寄る男は利用するだけ利用して。自分が一番美しく磨かれた時期に、一番高い値段で最高の相手に売りつける。
……そう思って、今まで処女もファーストキスも頑なに守って来たのに。
信じられない。誰よりも潔癖症だった私が、最後は内臓をぶちまけたまま死ぬなんて。
ピンク色の内臓が視界に映る。グロテスクで醜い。これが自分の体から出て来たものだなんて、認めたくない。
汚い。汚い。あれを片づけないと、綺麗にしないと、私は死んでも死に切れない……!
※
「いらっしゃーい。今日はどうしました?」
腰のあたりまで伸びたストレートのロングヘアを、仕事の時は後ろで一つに束ねて。
口元に薄いルージュを引き、にっこり極上の営業スマイルで告げると、男は照れたように頭を掻いた。
「あ、いや……この背広のクリーニングを、頼みたくて。あれ、新しい子?」
飲み会の帰りなのか、だらしないワイシャツ姿の男は、落ちつきなく私の顔を観察している。
その手の視線には慣れていた。子供の頃から、両親や親戚、近所の人たちから、可愛い可愛いと言われて育ってきた。
成長してからもそれは変わらない。大抵の男は、私の美貌を前に挙動不審になり、馬鹿のように赤面しては口ごもるのだ。
「はい、先日からこちらのお店で働かせて頂いてます、○○と言います。よろしくお願いしますね」
○○はもちろん偽名だ。履歴書の住所もでたらめ、そういうことがまだ許される混沌とした時代だった。
男は、緊張した面持ちで私に汚れた衣服を差し出した。受け取った背広は煙草臭くて嫌な感じだが、それはおくびにも出さない。
「お会計させていただきまーす。お釣りが25円です、どうぞ」
お釣りを渡すふりをして、男の手をぎゅっと握れば、一丁上がり。
今日も一人、私は男を虜にしてしまった。美しいって罪ね。
深夜。私は水を飲みに行くついでに、手をごしごしと石鹸で念入りに洗い、アルコールで消毒した。昼間の男の手の垢や醜いひび切れが、こっちまで感染しそうな気がした。
男という生き物は、どうして仕事にかまけて、自分の体のメンテナンスを怠るのだろう。身の回りの事は、子供の頃は母親任せ、老いては妻任せ。それで半人前扱いされると怒るのだから、始末に負えない。
洗面所の鏡の中の私は、変わらず美しい。ワンレンの髪、白い肌に桜色の唇……ぱっちりと開いた目に長い睫毛。自分でもうっとりと見惚れてしまうほどだ。
「……っ!」
ふと、眩暈に似た感覚。冷たい水に触れたからか、私の中の何かがぐらりと揺らぎ、木の床に膝をついてしまう。
指先の細胞が溶けだして、手の形を失くす。手首の先から、どろりと肌色の液体が垂れた。
「また……どうし、たの……わたしのからだ……」
苦しいと言うのとは違う。どちらかと言えば、心地良い眠気に襲われているのに近い。
雪山で遭難した経験なんてないけど、うとうとしているうちに、気づいたら死が待っている……そんな感じ。
このまま眠ったらいけないことを、本能で理解していた。
あの時、トラックに跳ねられ意識を失い、気が付いたら、私は全裸で土の中にいた。
そこから必死で這い出したはいいものの、既に私は死んだことになっていた。どうにか衣服を調達し、身分を偽り、働かせてくれる所を転々としているが……たまに、こうなるのだ。
夜になり、少し気を抜くと私の体は液状化する。私はゾンビになってしまったのか。食べ物を全く受け付けなくなったし、それでも死なずにこうして生きている。
にゃあ、と足元で鳴き声がして、私はびくりとする。見れば、この店の夫婦が飼っている年寄りの黒猫だった。
猫は、上半身が既に溶けている私を何の感慨もなく見やって、ふわあと一つ欠伸をし、尻尾を立てながら夫婦のいる階段を下りて行く。
その後ろ姿を見ていると、少し気分が落ち着いてきた。私がもし、この世に存在してはいけないものだとしたら、人間なんかよりもずっと自然に近い動物たちが、真っ先に拒否反応を示すはずだ。
あの猫は、液状化した私を威嚇するでもなく怯えるでもなく、「ただそこにあるもの」として認識していた。木や草や花と同じように、私という存在は、まだ地球上に在っていいのだと思わされた。
私は、猫に続いてゆっくりと階段を下りた。
灯りの漏れたリビングから、奥さんの声が聞こえてくる。私の事を話しているようだ。
「……だから、あなたからも言ってくれない?無闇に男性客に媚売るのはやめてって」
住み込みで働いている私は、いつもならもう与えられた部屋で眠りについている時間だ。そのせいか、声の大きさに遠慮がない。
「前だって、勘違いしたお客さんが、あの子と結婚するって押しかけて来たでしょう。困るのよ、揉め事起こされちゃあ」
「それはあの子のせいじゃないだろう、美人には良くあることじゃないか。お前には縁のないことかも知れんが……」
「なんですって!?だいたい、あんたもあんたよ、私は最初から反対だったのに、気の毒だとか言ってあんな得体の知れない子を住み込ませて!」
「よく働いてくれるじゃないか。食事は外で済ませるって言うし、給料も最低賃金でいいだなんて。通いのアルバイトよりよほど安上がりだろう」
「それよ、あの子が不気味な理由は。何かを口にしているところを見たことがないし、お手洗いも……なのに、いつも恐ろしいほど綺麗で……」
奥さんはふいに何かを思いついたように、椅子から腰を浮かした。
「ちょっと、履歴書の住所に確認してみるわ。あんた邪魔しないでよ」
「お、おい!」
全てを聞いていた私は、柱に寄りかかり、ため息をついた。
あーあ。
ここも、そろそろ潮時かな……。
※
『相馬さん、まだ就職決まらないんですって?』
『いい気味よ、あの子単位だってギリギリだったんでしょ?教授に色目を使って、どうにか留年を免れただけのくせに』
『今はクリーニング屋でアルバイトですって。ミス東大も、落ちぶれて見れば惨めなもんよね』
クスクス。クスクス。
成績だけが取り柄のブスどもの笑いが、酷く耳障りだ。
腹は立ったものの、私はそれほど焦ってはいなかったし、落ちぶれたとも思っていなかった。世はバブル真っ盛り、膨れるだけ膨れた泡が、ある日突然弾けることなど、誰も予想していなかった。
男も女も、経済的に余裕があった。私のように、卒業後フリーターや家事手伝いになる女性は珍しくなかったし、無理をして正社員にならなくても、若い美人ならすぐに嫁の貰い手が見つかった。
ただ、東大卒という肩書きと私の美貌は、卒業してから明らかに足枷となっていた。良いと思った男は、少しでも結婚をちらつかせると慌てて逃げる。
『君って連れて歩く分には自慢できるけど、嫁にするにはちょっとなぁ』
見下していたメッシー君にまでそう告げられた時、私の苛立ちは最高潮に達した。
出来れば相手の顔面にワインをぶっかけてやりたかったが、綺麗好きの性格が邪魔をする。片づけをするのはこの男ではなく、店員だ。
『馬鹿にしないで!私だって、相手は選ぶわ!』
女王に餌を運ぶ蜜蜂に過ぎない存在が、私をそういう目で見ていたこと自体が、汚らわしかった。
『あなたとはこれで最後よ。ごちそうさま!』
トレンディドラマよろしく、伝票をテーブルに叩きつけて店を出た。メイクが涙で落ちそうになるのを、ハンドバックから出したハンカチで押さえる。
どいつもこいつも、身の程を知らない馬鹿ばかり。結婚するわけでもないのに、隙あらば体に触れてこようとして、気持ち悪い、吐き気がする……!
日の当たる道路に出て、横断歩道を小走りで進む。唐突に、激しいブレーキ音がした。
信号は間違いなく青だったのに、横を向いた私の体に、猛烈な勢いでトラックが滑りこんで来た……。
死んでから、何となく、わかってきたことがある。
人の姿を保ち続けるためには、何か『栄養』が必要なのだ。
けれど今の私にはその手段が思いつかなかった。いえ、本当はとっくに気づいていたのに、敢えて考えないようにしていたのかも知れない。
バイトしていた店に来る客の中で、たまに、物凄く甘い、いい匂いを放っている男がいた。
見た目は大したことは無い、むしろ不細工の範疇であることが多かった。でも、その男を見た途端、私は思わず涎を垂らし、相手に悟られないよう口元を拭った。
まさか、そんなはずはない、でも。
考え、思い悩んでいる間にも、体は次第に弱っていく。食べなければいずれ動けなくなることはわかっていても、私にはまだ人としてのプライドが残っていた。
誰かに背中を押してもらえば、その一歩が踏み出せるかも知れない。食べてもいいんだよと、許してくれる人がいれば、私は遠慮なく理性を捨てられる。
──そんな時だ、あの少女に出会ったのは。
確か、岡山の倉敷だったか。とある電器屋の前、テレビが展示されている街頭でのこと。
テレビの前には人だかりが出来て、誰も彼も、興味深げに報道に見入っていた。尋常ではない事件があったのかと、私もその輪の中に入ってテレビを覗きこむ。
画面の中で、眼鏡の中年の男が、白い紙を手にぼそぼそと喋っていた。
『……申しました通り、本日中に、公布される予定であります、新しい元号は、平成であります』
枠で囲まれた用紙の中央には、筆文字で大きく、平成、とあった。
ざわ、と周囲がどよめく。
元号が変わる。それはまさに、昭和という歴史が終わったことの証明だった。
昭和生まれの私は、平成生まれの子から見たら前時代の人間……。
一気に年を取ってしまったような気がして、私は茫然とテレビの中の光景を見つめていた。
「ヘイセイ……」
ふと、私より頭一つ低い位置から、少女の声がした。
そちらを見ると、みすぼらしい恰好をしたダサいブスが、妙に切なげな顔でテレビ画面を凝視していた。
薄い胸に片手を当て、瞼こそ閉じていなかったが、黙祷に近い仕草をしている。一つの時代が終焉を迎えたことに対する感傷が、私より強いように見受けられた。
にしても、その恰好は無いでしょう。ボサボサの黒髪に薄汚れた服、浮浪者か何か?顔立ちだって不細工だし、まだ若いだろうに、女を捨てているとしか思えない酷い身なりだった。
やだやだ。親はどんな教育してるのかしら。軽蔑とともに離れようとした私だが、ニュースが切り替わり人が少し減ったその瞬間、不意に懐かしいような匂いが鼻をついた。
違う。
懐かしい、のではない。
それは常に嗅いでいる私自身の匂いと近かったのだ。
どうして?
少女と目が合った。彼女も、意外なものを見たようにこちらを見ている。
多分、相手も同じことを考えたのだろう。
私と同じ……一度死んで、蘇ったもの。その匂いが全身にまとわりついている。
しかし、声をかけようとした私に気づくや否や、彼女は身をひるがえして駆け出したのだ。
「ま、待って!」
私は慌てて走り、小柄な彼女の背を追いかける。
もはや元号が平成に変わることよりも、やっと巡り合えた『同胞』を逃すまいと、そのことで頭がいっぱいになっていた。
少女の足は思いのほか速い。と言うより、私がまだこの体を上手く操れていないのかも知れない。
「待ってよ!あなた、私の『仲間』でしょう!?どうして逃げるの!」
私があまりにもしつこかったからか、少女は足を止めた。
ようやく追いついた私は、息をつきながら、この機を逃すまいと、少女の細い腕を掴む。
私も色白だけど、この子はそれに輪をかけて青白いといった感じだ。生気がなく、間近で見ると、本当に幽霊のようだ。
「ねえってば……」
少女は私の顔をじっと見ると、心底迷惑そうに息を吐いた。
「放して下さい。私とあなたとでは、全く違います」
まあ確かに、外見的には圧倒的な差があるけど。その意味を深く考える余裕など、私にはない。
今までずっと一人で、全国を転々としてきたのだ。この姿になってから、まともな仕事にはつけず、友達すら作れない。ようやく会えた仲間らしき人物を、そう簡単に手放す気はなかった。
「どういうこと!?あなただって液状化するんでしょう!?ねえ、私と一緒に行動しましょうよ。一人より二人の方が絶対いいし!」
思えば、他人に対してここまで下手に出ることは、私の人生において初めてのことだった。
生前は頼まなくても男が勝手に寄ってきてちやほやしてくれて、女だって一部の馬鹿を覗いては、美しい私に憧れて、持ち上げてくれた。
それが、目の前のこのブスは、平然と私を拒む。並んで歩いて比較されるのが嫌だからに違いなかった。
少女はそんな私を醒めた眼で見ると、まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるような口調で言った。
「あなたはまだご自分の身に起きた事が、よくわかっていないご様子。ならばお互いに関わり合いにならない方が、身のためです」
「ちょっ……!」
少女の姿が不意に消えた。下にある排水溝に吸い込まれていったのだと、すぐにわかった。
私も彼女の真似をして追いすがろうとしたけれど、液状化がうまくいかない。どんなに全身に力を込めても、体の一部が溶けただけで、全部は無理だった。
まだ、自在に操れるところまで達していなかったのだ。何だか、あの少女に比べて能力的に劣っているのを見せつけられたようで、癪に障る。
「なんなのよ……ブスの上にケチだなんて、救いようがないわね……」
手の届かない葡萄に悪態をつくキツネみたいに、残された私は一人毒づいた。
強がってはいたけれど、本当はずっと一人で寂しかった、ようやく誰かと悲しみを分け合えると思っていたのに、あっさり手を振り払われた。
涙など流れなかったが、心底泣きたい気分ではあった。今までの私のようにはいかないのだ、と改めて思い知らされた。
もう私は人間ではないから、ミス東大でもなんでもないから、あんな年下のブスにさえ、友達になるのを拒まれると言うの?
悔しさを噛み締めながら、そのまま岡山を離れ、また東京に舞い戻って来た。
東京なら、受け入れてくれる仲間が大勢見つかるかも知れない。生前の私を知っている人がいるから、出来れば戻りたくなかったのだけれど。
※
「もう上がっていいよ、ご苦労さん」
主任にそう言われて、私は我に返った。空腹のせいでぼうっとしていて、就業時刻を過ぎていたことに気づかなかった。
「お、お疲れ様です!」
手に握った雑巾をバケツに落とし、バケツを持ってそそくさとその場を離れる。
クリーニング屋でしか働いたことのない私が、次に始めたのはビル清掃の仕事だった。
ひたすらに物を洗ったり磨いたりしていると、心が落ち着く。白く泡立てた洗剤の香りも、流れる水も、もう二度と入ることのないだろう『お風呂』を連想させてとても懐かしい。
でも、いつまでもこんな暮らしが許されるわけでもない。私の空腹はさらに酷くなり、水を飲んで我慢しても、仕事中にぐうぐうと腹が鳴ってしまうほどだった。
何度か人間の食べ物を試してみたけれど、結局は戻してしまう。東京に来て見れば、案の定いい匂いをさせている男に出会う確率はぐんと上がった。
食べちゃえ、食べちゃえと、私の中の悪魔がささやく。
「覚悟を決めた方がいいのかしら……」
まだ、踏ん切りがつかない。高層ビルのガラスに映る麗しい姿は、以前と何ら変わらないのに、私の体はもはや人外となってしまった。
いつかは普通の人間に戻れるなんて、所詮は甘い夢だ。さっさと自分は化け物だと、男を食って生きる妖怪に生まれ変わったのだと、薄々気づいていた事実を認めてしまえば、楽になれる。
自殺する勇気も手段もなく、おめおめと数年間生き延びたが、このまま餌を取らなければ、冗談抜きに生命活動を停止してしまうかも知れない。だからと言って、何の罪もない男を襲って食うのはさすがに抵抗があった。
私の体目当てで寄ってきた男たちを思い出すと殺意すら湧くけれど、その辺を歩いている通行人には、それぞれ家庭があり、未来がある。
そう言えば、あの子……。
数年前に出会った、みすぼらしいブスを思い出す。
あの子は間違いなく私の仲間だった。それでいて、恐らく私より多く経験を積み、液体となった体を自在に使いこなしていた。
つまり、あんな大人しそうな顔して、もう何度も男に襲いかかって、力を得てるってことよね。人は見かけによらないと言うか、何だか人間不信になりそう。まあ、私たちもう人間じゃないけど。
着替えを終え、日払いの賃金を受け取って帰ろうとすると、主任に呼びとめられた。
「○○くん、ちょっといいかい。話があるんだ」
この職場でも、私はもちろん偽名を使っていた。万が一知り合いに会ったら面倒なことになる。
それにしても何の用かしら。まさか、今日で首だなんて言わないでしょうね。
嫌な予感に私は眉をひそめたが、主任は部屋の扉に鍵をかけると、ゆっくりと私に身を寄せて来た。
「君はちょっとわけありのようだね。ああ、言わなくていいよ、別に興味ないし。それだけの美貌だ、今までも色々苦労したんだろう」
「……はあ」
主任の脂ぎった手が、スカートの尻を撫でまわす。
「賃金を上げるよう、上に交渉してあげてもいいよ。もっとも、君次第だけどね……」
下半身に堅いものを押し付けられ、戸惑う私の耳に、妻に先立たれて寂しいだとか、娘のようで放っておけないだとか、どうでもいい口説き文句が入ってくる。
その間にも主任の指はせわしなく動き、スカートのホックを外してきた。
ああ、またか。
どうして私に群がる男は、こんなのばっかりなんだろう。
白馬の王子様はどこにいるの?ちゃんと、私の性格を、この崇高な心を愛してくれる男性は。
私は諦めとともに体から力を抜き、されるがままに床に押し倒された。抵抗しない私に、主任は嬉しそうに鼻の下を伸ばしていた。
「ほう、やっぱり男慣れしているね。私はその方がいいがね、面倒が無くて」
主任はズボンのポケットからコンドームを出した。写真や店頭のパッケージでは見たけど、本物を目にするのは初めてだ。いつも持ち歩いてるのね、気持ち悪い。
私が処女だと知ったら、こいつはどんな顔をするだろうか。でも言わないし、言う必要は無いし、私は悪くない。
「我慢、できない……」
唇から本音が漏れてしまう。
黙って押し倒されたのは、他の男に対して感じている恐怖や嫌悪感を、主任に対して全く感じなかったから。
その理由はたった一つだ。ネズミに恐怖するライオンが、一体どこにいると言うの?
「ん、もうかい?ははは、いやらしい子だ。すぐよくしてあげるよ」
どこかのAVから引っ張って来たのか、安っぽい台詞を吐きながら、彼はスカートを脱がし私の可憐な下着に手をかける。
蛍光灯の下、まだ誰にも触らせたことのない秘所があらわになった。黒々とした茂みに指を入れられた途端、未知の感覚に、びくん、と背中を反らせる。
これは生理現象で、感じているわけじゃない。そもそもオナニーすらあまりした事のない私は、感じると言うことがよくわからなかった。
自分の体を慰めるうちに夢中になって、膣の中を傷つけたという話を同性から聞いていたから、表面はなぞっても、深い部分に指を入れるのが怖かったのだ。
私の美しい体に、結婚前に傷をつけることは、たとえ私自身であっても許せない。そんな確固たる意志が、私を死ぬまで処女のままでいさせた。
くちゅり、と主任が遠慮なく指を突き入れてくる。陰毛に覆われた、その奥がかすかに濡れているのを感じ、にやついた笑みを浮かべる。
「なんだ、準備万端じゃないか……こんなに濡らして。そんなに欲しかったのか」
そう、確かに欲しかった。この男が。
我慢出来ない。性欲ではなく──食欲が、我慢できない。初めて会った時から、この不細工な主任の体からは、とてもとても食欲をそそる、いい匂いがしていたのだ。
ただのスケベジジイなだけで害は無いから、殺してしまうのは可哀想だと思っていた。だから最低限の会話だけで済ませて、なるべく近づかないようにして、毎日もらうものもらったら、即座に帰ってあげていたのに。
せっかくこっちが、人間としての最後の理性で、『我慢』していたのに。
誘ってきたのは主任の方だ。この男が、全てを台無しにしてしまい、そして私は心の奥底で、それに感謝していた。
ようやく、食べられる……!
男の骨ばった指が私の処女膜を貫き、激痛に顔をしかめた、その瞬間。
お腹の底がかっと熱くなった。その部分だけが溶解しているのが、見なくてもわかった。
処女を奪われた悲しさではなく、これでこの男を食う理由が出来たという喜びが胸中を占めた。私は犯された被害者だから、もうこの男に何をしたって構わない。
全身に電流でも走ったかのように、私の乳房は張り詰め、鳥肌と同時に乳首の先端がつんと立った。この男を捕らえて食べるための力が、発動しているのが判る。
下半身をまさぐっていた主任は、私よりも先に異変に気づいたようだ。赤かった顔を真っ青にして、「な!?」と叫んでいる。
お臍から下が、ドロドロに溶けていた。その中に手を突っ込む形になった主任は、必死で手を抜こうとしていたが、それは出来ない。
私が、逃がさない。
「あ、ああああ!?ぬ、抜けない!?」
弓なりに反った腰から下が、洗剤を思い切り泡立てたような、白い水と化していた。それは床に大きな水たまりを作り、濁流となって渦を巻いた。
そして、私の胃袋だった場所は、慌てふためいている主任の腕をがっちりと掴んだまま、さながら洗濯機のプロペラが回るように、おもむろに右方向に回転を始めた。
主任の腕は雑巾のごとく捩じり上げられ、回転に耐えかねた腕の骨が、バキバキと無様に砕ける音がしている。
どんなに苦しがっても、水の回転はやまない。人間が、自分の意思で涎や涙を抑えることができないように、私だって獲物を前にしての本能は止められないのだ。
「ぐああああああああ!いだいいだいいだい、あっ」
主任の体は捩じれ、千切れて、やがて木の葉が沈むように儚く、水の中に埋もれて見えなくなった。
その頃にはもう、私は服を全て脱ぎ捨て、誰もいない部屋の中で白い裸体を晒していた。恥ずかしくなんてない、何かが解放されたような気がしていた。
床に溢れた水は、主任を吸い込むと同時に私の体の中に全て吸収され、今では痕跡すらない。
体は体積を増して重くなっていたが、その重さがむしろ誇らしいほどだった。体の中で少しずつ、主任が溶けて行くのを感じ、快感とともにジワリと股間が熱くなった。
もしかしたら、これがセックスの時の「イク」というモノなのかも知れない。もう何もされていないというのに、私のすらりとした二の足の間からは、しとどに愛液が漏れていた。
『……がっ、おおお、ぐあ、ひいいい、が』
薄い膜を通して、主任の断末魔の声が聞こえてくる。お腹の中で、まだ意識のある彼が、どうにか体から逃れようと、ボコボコと皮膚に凹凸を見せながら暴れている。
私は両の足でしっかりと立ち、揺れるお腹をさすりながら、部屋に置いてある大きな鏡に、自分の今の姿を映した。
面白い光景が映っていた。膨らんだお腹の部分が、ほんの少し透けている。その膨らみの中に、回転したまま溶かされていく主任の姿が、影絵のようにくっきりと浮かび上がっている。
コインランドリーに放り込んだ洗濯物みたい。ぐるぐると回りながら、少しずつ小さくなって行く肉塊を見て、私はそんなことを思い、クスクスと笑ってしまった。
『あ……ごおおお、ひい……』
声が次第に弱くなり、聞こえなくなる。大の男の体が、お腹の中で泡でかき混ぜられて、徐々に赤子ほどに縮まって、溶かされ、私の一部になってく。
男の形が完全に消えてなくなるまで、三十分もかからなかった。若干もたれたような感覚があるのは、不純物が混じっているからだろう。
本当に化け物になっちゃったのね、私。少しだけよぎった悲しい思いは、ようやく満たされた食欲の前に、あっさりとかき消される。
お腹の蠕動が止まると、私は胃の中に残った不純物、即ち主任の靴と作業服と下着らしきものを、ぺっと吐き出した。
びしゃ、と湿った音を立てて、私の体液でクリーニングされた衣類が床に投げ出される。
どうやら私の場合は、衣服までは消化できないらしい。生前の性格が、餌の食べ方にも影響を与えているのかと思うと、感慨深いものがある。
「良かった、綺麗にお掃除できて」
初めて人を食べた罪悪感よりも、汚いものを片づけられたという達成感が勝っている私に、もはや人間としての感傷などかけらもなかった。
※
昭和から平成に変わって、何年後のことだったか。東京で、私は偶然にも例の少女と再会した。
いつものように、夜道を無防備に歩いている男に、背後から襲いかかろうとした時だ。
「お待ちください」
低い声とともに、『それ』は男の耳の穴から吹き出し、びしゃりと地面に落ち、小柄な少女らしき姿を形作った。
酔っているせいか、男は少し体を痙攣させただけで異変には気付かず、私たちにも気づくことなく、またふらふらと歩いて行った。
狩りの邪魔をされた私は、不機嫌に相手を見返した。
「この方は、私が寄生しています。申し訳ありませんがまたの機会に」
その慇懃無礼な口調と、みすぼらしい陰気な姿には覚えがあった。
「あなたは……!」
周囲を気にして小声でつぶやく私を前に、少女は首を傾げた。
「どこかでお会いしましたか?」
かちん、ときた。相変わらず失礼な小娘ね。本当は覚えてるくせに、わざととぼけてるんじゃないの?
その間にも、ターゲットの男は路地の角を曲がって見えなくなってしまう。私にとっては、半年ぶりの獲物だった。
すぐに追う事も出来たが、それよりこの少女が今になって姿を現した事の方が、気になった。
「会ったじゃない、ほら、元号が変わる時に、倉敷で!一緒にテレビ観たでしょ」
それでようやく、少女は思い出したようだった。
「ああ……あの時の。東京にいらしてたんですね」
「もともとこっちの出身なのよ。あなただって、訛ってないし東京の人でしょ?なんであの時地方にいたの、やっぱり仲間を探してたんでしょう?私はあなたが多少ブスでも構わないわ、今からでも一緒に行動しない?餌の分け合いだって出来るし、美人の私と一緒にいた方が何かと便利だと思うのよ、それで……」
少女はうるさげに耳を塞ぐ仕草をした。
「甲高い声で一度にまくし立てないでください、品の無い……。私はあなたより年上です、敬えとは言いませんが、それなりの言葉遣いを心がけて頂きたいものです」
「年上?ふざけないでよ、あなたどう見ても17、8でしょうが。私はとっくに成人してるし、こう見えても東大出てるのよ」
この時の私は、まだ少女以外の『お仲間』を知らず、自分に関する情報が極めて少なかった。私たち液状人間の年齢が、決して見た目通りではない事も。
そんな私の知識不足が見て取れたのか、少女は馬鹿にしきったように私を見上げた。
「岬の灯台ですか?」
「本当に失礼ねアンタ!まあいいわ、私は大人だから寛大に許してあげる。その代わりあの餌は譲ってよ」
言って、私は男の消えた方角を指差した。
「もう半年も食べてないの。今だってあんたがいなきゃ、すぐにでもあの男を襲いたいくらいよ!」
『あなた』から『あんた』に切り替えたことに気づいているのだろうが、少女はそれについては咎めなかった。
私の怒りなど、取るに足らない問題だと思っているのか、常に落ちついた表情を崩さないのが腹が立つ。
「その分では、ご自分が『捕食系』だと気づかれたようですね」
「捕食?ああ、捕らえて食べるってこと?あんただって男を食って生きてるなら同類じゃないの」
「………」
少女は深く息を吐くと、顎に手を当てて、しばらく何か考えているようだった。
譲ってくれる気になったのかしら。私が期待に胸を高鳴らせていると、彼女は予想外の事を言いだした。
「もう半年……いえ、1年ほど待って頂けますか」
「はあ!?」
私は思わず素っ頓狂な声を上げる。
何言いだすのよこの子。たった今、お腹がペコペコだって話をしてるのに、1年ですって!?
「冗談じゃないわ、なんでそんな……」
反論しかけて、私は先程少女の言っていたことを思い出した。
「あんたさっき変なこと言ってたわね、寄生とか。まさか、あの男を食わずに、体内に住みついてるってこと?」
体から飛び出してきたりしたから、妙だと思ってはいた。あの男は、内臓を食い荒らされているようには見えなかったし。
つまりこの子は、男の肉体ではなく別のものを食べているのだ。同類でありながら、私との交流を拒んできた少女の謎が、それでようやく解けた気がした。
「そうです。私は『寄生系』。殿方の体を損ねずに、排泄物だけを糧とする存在です」
街灯の下で、少女の醜い容姿が不気味に照らし出されている。
人体に巣くうおぞましい寄生虫が人の姿をとったら、恐らくはこんな外見になるのだろう。
「それでそんなにブスなわけ?あんたたちの場合、地味で目立たない見た目の方が活動しやすいもんね」
闇に隠れて生きる……まるで妖怪人間、いや溶解人間か。我ながらうまいことを言ったと私は思った。
「大きなお世話ですが、その通りです。逆に『捕食系』は、華やかな見た目の女性が多い。男性を引き付けやすいようになっているのでしょう」
「はー」
やっと、少しだけわかってきた。私たちの体の謎。
でも、感心してる場合じゃない。どうして1年も待たなきゃいけないか、理由をまだ説明してもらってない。
少女は街灯から離れ、ゆっくりと歩き出した。
「私について来て下さい。今の男性のお宅に伺います」
「え?……ええ」
この子があまりにも傲慢なもんだから、つい釣られて頷いてしまったけど。
私は納得がいかなかった。考えてみたら、何でこの子に従わなきゃならないの。私の方が美人だし、学歴高いし、年だって上だし。
別に、言うことを聞いてやる義理なんてないのよね。仲間になる気が無いのなら、今この場で殺してしまえば、あの餌は私のものになる。
私は暗闇の中、そっと少女の白い首筋に両手を伸ばした。だけど、無防備に背中を向けている少女の、よれよれのおさげが揺れているのを見たら、気持ちが萎えてしまった。
着ているものだって、ゴミ捨て場から漁って来たのが丸わかりで、まるでルンペン。どうしてもっと、身なりに構わないのかしら……。
液状化すれば、銀行にもデパートにも忍びこめる。お金や服なんていくらでも取り放題なのに、馬鹿じゃないの?意地でも窃盗はしないという意思の表れなわけ?
段々苛々してきて、でも憎しみとは違う別の感情が湧いて来て、私は少女のおさげを後ろからぐいっと引っ張った。
「……何をなさるんです」
予想の範囲内だったのか、少女の声は落ちついていて、歩みを止めることすらしなかった。ブスだからこそ、悪意を向けられたり、嫌がらせをされることには慣れている感じだった。
いかにもクラスの男子に嫌われそうなタイプだしね。学級委員長臭いと言うか、せめてもっと可愛げのある態度ならいいのに。
「首だけ動かさずに、じっとしてなさい。おさげ、編み直してあげるわよ」
目の前の醜いものや汚らしいものを、放っておくわけにはいかない。私は綺麗好きなのだ。
少女はしばらく沈黙した後、「……どうも」と答えた。
私は黙々と少女の髪をほどき、綺麗な形に編みあげて行く。全く、世話が焼けるんだから……。
そうして、私たちは男の家へと二人で歩いて行った。
※
「おーい、今帰ったぞ~」
べろんべろんに酔った男が、靴も脱がずに玄関先にへたり込む。
「は、はい!お帰りなさい」
太った奥さんらしき人が慌てて駆け寄り、水を飲ませようとする。男はその手を振り払った。
「水じゃない、こういう時は熱い茶だ、茶!全く、何年も主婦やってて、そんなこともわからないのか!?」
飛ばした唾が、いかにも気弱そうな奥さんの顔にかかる。彼女のコップを持つ手が、小刻みに震えていた。
「ご、ごめんなさい。でもあなた、この間はお水がいいって……」
「やかましい!亭主に口答えするな!誰が食わせてやってると思ってるんだ!」
男は奥さんの髪を乱暴に掴み、やおらその丸い顔を壁に叩きつけた。
私はさすがに言葉を失った。まだ、DVという言葉が浸透していなかった時代だ。
女の命である顔を傷つけられ、罵倒されて、どうして奥さんは耐えていられるのか、不思議でならなかった。
「子供も産んでないのに、結婚してからブクブク太りやがって!詐欺だ詐欺!俺に謝れ、このデブ!」
男はさらに拳を振り上げ、奥さんの顔を殴打した。そのたびに彼女は鼻血を噴き出し、ごめんなさいごめんなさい、と馬鹿のように繰り返していた。
私たちは、それぞれ液状化して窓に張り付き、その光景を見守っていた。しばらくして、ようやく私は口を開いた。
「……で?こんな汚いものを私に見せて、どうしようっての?」
今のを見て、男をあきらめるどころか、ますます殺したくなっちゃったんだけど。
呆れを込めて見つめる私に、少女はまるで表情を変えずに言った。
「気持ちは私も同じです。ですが、どんなに心の醜い男性でも、多少の良心は持っているはず」
「はいはい、性善説ってやつね。染色体Yに限っては、それが当てはまるかどうか疑問だけど」
男が女に対してする行動なんて、殺すか犯すか、その二種類しかない。ブスは前者、私のような美人は後者。
室内では、まだ殴打音が響いている。止めに入った方がいいのかも知れないが、それでは根本的な解決にはならない。
「私はあの男性に、改心の余地を与えたいのです。ですから、1年ほど猶予を頂きたいと」
「執行猶予?でもこんな糞ったれが、簡単に心を入れ替えるとは思えないし。大体、あんたの自己満足のために1年我慢したところで、私には何のメリットもないじゃない」
吐き捨てると、少女は妙に確信に満ちた口調で言い返してきた。
「いえ、あるんです。あなたが待った方が良い理由が」
「どういうこと……?」
「私が寄生してから数年、当初はふくよかだったあの男性は、今はほっそりした外見を保っています。もちろんそれが私のおかげだとは知りません」
「だから何よ。恩着せがましいわね」
「ところが奥さんの方は、年々体に脂肪が付いて来ています。年齢を重ねた女性なら当然の健康的な太り方で、何ら問題は無いのですが、自分は痩せているのに奥さんは太っている、それがあの男性は気に入らないのです。俺はこの体型を維持しているのに、太るのはお前の努力不足と怠慢だと、そう思い込んでしまっている」
「要はあんたのせいで、夫婦仲がうまくいかなくなってるんでしょ」
寄生系は宿主の体の掃除をしてくれる、人間にとっては良種かも知れないけど、あながちいいことばかりではない、と言うわけか。
ちょっと溜飲が下がった感じ。私たち捕食系だけが悪者みたいに言われるのは気分悪いもの。
「もともと粗暴な男だったにしても、あんたが寄生しなければ、あの男はデブのまま、似合いの夫婦だった。少なくとも、自分が努力でやせたと勘違いして、奥さんをデブ呼ばわりすることは無かったはずよね」
嫌味を言ってやると、少女は辛そうに目を伏せた。
「そう、私のせいでもあります。だからこそ私が何とかしたい」
「話が全然見えないんだけど」
「まだ、わかりませんか?私が体を離れれば、あの男性は徐々に太り出し、1年ほどで元の体型に戻ります。つまり今よりもずっと脂が乗って、あなたにとって食べやすく、美味しくなると言うことです」
「……っ!」
私はごくりと生唾を飲み込んだ。
確かに今までの経験上、ハンサムな男や、痩せてる男はあんまり美味しくなかった……餌に困ってたから、不味くても贅沢は言えないと思っていたけど。
まるまると肥えて脂が乗った男が食えるなら、どうにか1年ぐらいは我慢できる。
「なるほどね……今より美味しく熟すんなら、待ってみる価値はあるかもね」
ぼたぼたと垂れてくる涎を手で拭う。情けないけど、この体になってからと言うもの、私の生理現象は年頃の乙女ではなく、動物の雌に近くなっていた。
「1年経って、彼が自分の過ちに気付き、奥さんに謝罪してくれることを、私は願っています。しかし、もしも自分が太り出しても、変わらず奥さんを責めているようなら……」
少女は静かに告げた。
「その時は、あの男性はあなたに差し上げます。……どうですか、この賭けに、乗ってはくれませんか?」
差し上げます、と来たか。まあ、私たちにとって人間の男なんて餌にすぎないから、その反応で合ってるんだけど。
自分の命が、自分の知らないところで賭けの対象になっているとも知らず、ひたすら奥さんで憂さを晴らしている男が、何だか滑稽に思えて来た。
「ま、1年待つのはいいとして。あんた、私がそんな約束を守るとでも思ってるの」
あの男が改心しようがしまいが、私は1年後、いつでも彼に襲いかかって食らうことが出来る。この賭けは、どう見てもこの子に分がない。
だけど少女は、私の顔を見てふっと笑った。
「友達を欲しがって追いかけてくるような寂しがり屋さんが、同胞との約束を反故にするとは思えませんが」
「こ、この……」
私は拳を握った。殴るのはさすがに大人げないと思ったからやめたが、再会するまで私の事を綺麗さっぱり忘れていたくせに、思い出したら即座に利用しようとするなんて、いい根性をしている。
数年経ってもこの子を忘れられなかったこと、さっき殺そうとしたけど思いとどまったこと、それらの全てを察した上で、少女は私が賭けに乗ると踏んだのだ。
ほんと、小賢しいと言うか、人の行動を読んで操ろうとして……腹立つ子だわ。こうなってくると、再会したことすら計算のうちではないかと思える。だってタイミングが良すぎるじゃないの。
まあいいわ、どっちにしろ、裏切るのは1年後でいい。
「そう言えば、まだ名乗って無かったわね。私の名前は、相馬千砂。千の砂と書いて、ちさごって読むの。あんたは?」
「今村スミレと申します」
私は、あの男が他の捕食系に食われないよう様子を見つつ、時々今村スミレと情報交換をして、親睦を深めあった。
話によると、彼女は私より先に生まれて死んだ、団塊の世代ということだった。道理で、偉そうな態度を崩さないわけだ。
捕食系が寄生系と仲良くすると言うのは、ほぼあり得ないことらしい。
私は相当気が強いと思っていたが、今村スミレがこれまで出会った捕食系の中では、比較的穏やかな方であるらしかった。
捕食系の特性は、冷酷、好色、そして暴力的。好色以外は、私もある程度当てはまっていると自分で思う。
目が合っただけで因縁をつけてきたり、無理に餌を横取りしたり、そんな捕食系が多かったから、私の事も最初は警戒していたようだ。
でも、常にすっぴんの彼女のために、少しはましに見えるメイクを教えてあげたり、服を選んだりしているうちに、だいぶ打ち解けて来た。
「捕食系の方と、こんな風に語り合うことが出来る日が来るなんて、いまだに信じられません」
「私もよ。ずっと一人だったから……」
1年は、あっという間に過ぎた。
この感情は、今にして思えば、友情と呼ぶにはあまりにも淡いものだったけれど。
※
約束の日、男の様子を見に行くために、私たちは渋谷駅の前で待ち合わせをした。
渋谷だから、今村スミレはそれなりの服装をしている。彼女の余りのファッションセンスのなさに、私が見かねてプレゼントしたワンピースだ。
電柱に寄りかかって、肩で息をしている今村スミレに、私は気遣わしげに声をかけた。
「ね、ねえ。顔色悪いけど、大丈夫……?」
元々悪かった顔色がさらに酷くなっている。
そう言えばこの子、あの男の体を離れてから今日まで、何も食べていないんじゃない?
気づいた瞬間、私は思わず、その華奢な体を抱きしめてしまった。相手は驚いたように身を固くしたが、力が入らないのか拒みはしなかった。
私たち捕食系は、人間をまるまる一人食ってしまえば、後は1~2年食べなくてもどうということはない。
けれど寄生系は排泄物しか食べられないから、一度に摂取できるカロリーが、捕食系とは比べ物にはならないほど低い。
要するに容量が小さく、食いだめが出来ないのだ。点滴を打つように、毎日少しずつ栄養を補給しなければ、人間の体を維持できなくなる。それが、この1年で様々な『同類』に出会った私が得た情報であった。
「待ってなさい!私がそこいらで、食えそうな男を探し……」
雑踏に走りだそうとする私を止め、今村スミレは弱弱しく首を横に振った。
「平気、です。あなたが我慢しているのに、私だけが栄養を取るなんてできません」
鳥肌が立つような事を、平気で告げてくる。
「くっだらない!私なんかに付き合うこと無いじゃない。あんたは別に食事には困らないでしょうが!」
友達に付き合って断食。いかにも昭和中期の人間らしい、古臭い思考だ。
私は自分の欲望の方が大事だ。誰かのために、自分を犠牲にするなんて信じられない。
「そんなことをして、私が喜ぶとでも思ってるの!?」
頼んでもいないのに余計なことをしてくれて、無性に腹が立った。その場に膝をついて、背中を向ける。
「ほら、おぶさりなさい」
「そこまでして頂くわけには……」
「私は、賭けに負けたあんたの悔しそうな顔が見たいんだから。こんなところで倒れられちゃ意味ないわよ」
「……ではお言葉に甘えて」
珍しく従順だった、いつもこうならいいのに。信じられないほど軽い体をおんぶして、私は男の家へと向かった。
何が可笑しいのか、今村スミレは背中で小さく笑いを漏らす。
「だって、今日で最後ですから。あなたは多分、あの男性を食べることはできません。そのお詫びも兼ねて」
勝利を確信しているのか、今村スミレは青い顔で笑った。
「約束ですよ、千砂さん。私が賭けに勝ったら、潔く身を引いて下さい」
それはもちろん、そのつもりだった。こんな死にかけの寄生系との約束を破り、更に追い打ちをかけるほど、私は鬼じゃない。
まさかそれも計算済みじゃないでしょうね!?そのための絶食だったりして!?
この子ならそのくらいやりかねないわ。全く、相手の良心に付け込んで、何て女なの……。
良心、か。似合わない単語に、私もつい笑ってしまう。この子といると、とうに失ったはずの人間としての心がまだ残っているような気がして、こそばゆくなる。
「随分な自信じゃないの。期限が過ぎるまで、あの夫婦に接触するのはルール違反だったはずよね?」
「そんなことはしていません、ですが……昨日、あの男性が薔薇の花束を抱えて家に戻るのを見ました。きっと奥さんにあげるんですよ」
肩の荷がおりたと思ったのか、安心したように微笑むその顔は、ひどく子供じみて見えた。頭が切れるくせに、時々妙に世間知らずと言うか、純朴な面を覗かせる。今村スミレはそういう不思議な少女だった。
「へえ、そうなの……」
見間違いじゃないかという疑念はあったが、本当だとしても、不思議と落胆はしない。あの男を食えなくても、また次の餌を探せばいいだけの話。
男の家に着くと、私は背中から彼女を下ろしてやった。
と、室内で何かが割れる音と、怒号。続いて、重いものが転倒するような音が聞こえて来た。
「……」
私たちは一瞬、顔を見合わせあった。
最初に動いたのは今村スミレだった。「見てきます」と緊張した面持ちで言って、玄関先で素早く液状化し、ドアの隙間からするすると室内に侵入した。
私も一緒に行かなかったのは、何故だろうか。中に入ったら、見てはいけないものを見てしまうような気がしていた。
液状化して植え込みの陰に隠れて、じっと今村スミレを待っている間、私は自分の心に生じた変化に戸惑っていた。
もし今の音が、例の夫婦喧嘩、いや一方的な男の暴力だとしたら。男がまだ改心していないとしたら、賭けは私の勝ちと言うことになる。
晴れて私はあの男を食えるわけだが、そうしたら、今村スミレはどうなる?今まで通り、私と友達でいてくれる……わけがない。
賭けに負け、宿主を奪われたあの子が、これ以上私と一緒にいる理由は無い。また新たな宿主を探して徘徊を始めるだけだ。
でも私は……。
今日、今村スミレは私が贈ったワンピースに袖を通している。それは、彼女が私の気持ちを受け入れてくれた証ではないのだろうか。
何よこれ、これじゃまるで私があの子との友情ごっこを続けたがってるみたいじゃない……。
1年限定の付き合いだったはず。今日だってそのつもりでここに来た。でも、あの子が絶食するほどあの夫婦に肩入れしているなら、譲ってやってもいいぐらいには思ってた。
今村スミレには黙っていたけれど、この1年、私は空腹に耐えきれず、何度か男を食った。だから腹はそれなりに満たされてはいるのだ。
ああもう苛々する、待ちきれない。私はついに痺れを切らして、ドアの隙間に入って行った。
と、ちょうど玄関に戻って来た今村スミレとかちあった。彼女は物も言わず(液状化しているから当たり前だが)私を素通りして外に出て行った。
「ちょ、ちょっと!」
私は慌てて後を追い、素早く人間の形になった。彼女も人の姿に戻りすたすた歩いて行く。
これじゃ初めて会った時と変わらない。でもあの時と決定的に違うのは、私は人を食って力をつけ、それなりに足が速くなっていたということだ。すぐに追いついて、その華奢な肩を後ろから掴んだ。
「待ってよ、中で何があったの!?ねえってば」
「差し上げます」
背を向けたまま、今村スミレはぽつりと言った。
私は、かすかに息を飲んだ。言葉は少なくとも、その沈痛な表情を見ていればわかる。彼女は賭けに負けたのだ。
「私の、見込み違いでした。あの男性はあなたに差し上げます」
「そ、そう」
どうやら中でまた奥さんに暴力を振るっていたようだ。こんな時、どんな言葉をかけていいのかわからない。
おかしい。この子が落ち込んでいるのを見て嘲笑うのが目的だったのに、いざとなったら何の皮肉も嫌味も出てこない。
譲られたからと言って、はいそうですかと、きびすを返して男を食いに行く気にはなれなかった。
立ちつくす私を見て、今村スミレはふっと唇を歪めた。
「食べに行く気にはなれませんか。まだ、お腹がいっぱいだから?」
胸を、鋭い刃物で抉られたような気がした。
彼女の冷たい瞳、それと同様の冷やかな口調──それで私は全てを悟った。
私は、試されていたのだと。
「……な」
次に私の口をついて出て来たのは、どう言うわけか罵倒ではなく、情けない弁解の言葉だった。
「わ、私が1年間食わないって約束したのはあの男だけでしょう!その間、他の男をどうしようが、私の自由じゃない!」
そうだ、絶食したのはこの子の勝手で、私がつきあう義務なんてない。そもそも、この子が食べていないことなんて知らなかったのだから。
どう考えても私の主張の方が正しいはず。なのに、湧き上がる罪悪感は何なのだろう。
感情に任せて怒鳴りつつも、私は今村スミレの顔を正面から見られなかった。だから、その時彼女が着ていたワンピースの白だけが、今でも記憶に残っている。
「では、どうして先程、正直にそうおっしゃらなかったんですか?悪いと思っていないのなら、その場で言っても構わなかったはず」
「そ、それは……」
肩から手が離れる。
認めざるを得なかった。私は今村スミレに嫌われたくは無かったのだ。だから無意識に、彼女に隠れて人を食い、その事実を隠そうとしていた。
寄生系は大人しく、争いを好まず、人間であった頃の理性を強く残している。だから人を食うことにある程度嫌悪を抱いている、それは知っていた。
でもこの1年、私たちはうまくやっていたと思っていた。お互いを少しずつ理解し合って。それともそう感じていたのは私だけだったのだろうか。
今村スミレはまるで汚いものでも払うかのように、私に掴まれた肩のあたりを手で払った。
「それに、私は何度もサインを出していました。あなたの前で苦しそうな表情も幾度となく見せていたはず。でも、この日が来るまであなたは私の絶食にまるで気が付かなかった」
電柱に寄りかかっていたのは、最後のヒントだったと言うわけか。あれで私がなおも気づかないようなら、自分から切り出すつもりだったに違いない。
だから、何だと言うの。怒りと屈辱に、体の震えが止まらない。今村スミレは男の生死を賭けながら、もう一つの賭けをしていたのだ。
私が友人に値する女かどうか、試そうとしていた。
「……あ、あんた、何様なのよ!」
友達の作り方なんて知らない。向こうから頭を下げて、寄ってこなければいけないものだった。そうして私は、醜い彼女たちに同情してお下がりの服を与え、メイクの仕方を伝授してあげ、要らなくなった男も下げ渡す。
それがどうして、こんな女としての魅力が圧倒的に下である存在に、見下され試され、侮蔑されなければいけないの?
「これでも体を張ったつもりなんですよ。私を本気で案じていて下さるなら、1年と経たずに私の体の異変に気付いたはずです」
私が、あなたが隠れて捕食していたのに気づいたように。
平然と今村スミレは言ったが、私にしてみれば無茶な要求以外の何物でもなかった。
毎日ずっと一緒にいたわけでもないのに、常に彼女の顔色を気にして、言わずとも期間中、捕食をやめてくれるとでも思ったのだろうか。それが出来れば、私と友達になるつもりだったと?
あまりの傲慢さに私は眩暈がした。私だって我儘な自覚はあるが、この子ほど不遜ではない。ただの友人にそこまでの気遣いを要求する神経を疑う。
けれど、今村スミレは「それ」が出来るのだろう。私の行動の一挙手一投足に目を光らせて、自分に利がないと判断すれば切る。恐ろしいほど冷酷な少女だった。
「このワンピースもです。私が、盗んだものなど欲しくはないと何度も言ったのに、あなたは無理やり着せて」
心に罅が入って行く。私と今村スミレの間にあったものが、音を立てて崩れて行くような気がした。
「だって……最後には着てくれたから、てっきり喜んでくれてると……!」
別人のように弱弱しい口調で、私は呟いた。人間であった頃の意地で、盗みはしないなどと言い張っている彼女の行動は、私にとっては間抜けにしか見えなかったのだ。
彼女は十代のうちに死んだ身、世間を知らない。この世界が汚れていることを知らない真っ白な彼女を、いずれ私の色で染めてあげようと夢を描いてすらいた。
「私は嫌だと言っていたでしょう。力ずくで押して、相手が根負けしたから、逆らわないから、合意だと思い込む。あの男性とどこが違うんですか」
淡々と、彼女は滅茶苦茶な理屈を振りかざす。普段の私であれば相手にもしなかっただろう。
この場合、最初に感情的になった私の負けだった。見下していた相手に二度も振り払われ、私は自分の存在価値と言うものが揺るぎ始めていた。
「違う……私は」
盗みが悪いことぐらいわかっている。でもこんな体になった身で、他にどうやって欲しいものを手に入れろと言うの?
化け物になったくせに、まだ人間だった頃の価値観を引きずっている今村スミレの方がおかしい。男と同じだなんて言われたくは無い。
私はただ、寂しくて、見返りなしに一緒にいてくれる相手が欲しくて。この子だって喜んでくれたと思っていた。
けれど目の前の少女は冷酷に私を拒む。私が1年間温めていたつもりの友情は、この子にとってはお試し期間にすぎなかった。
「やはり、あなたは骨の髄まで捕食系です。私も努力はしましたが、判り合えない」
「それはこっちの台詞よ!」
私は髪を掻き毟って叫んだ。
「ガキだわ、てんでガキ。たかが友達に、どこまで期待してんのよ。あんたと一緒にいるためには、常にあんたの考えてることを察して、先回りして動かなきゃならないわけ?ほんと何様よ、自分にどれほどの価値があると思ってるの!?」
ブス、おかめ、幽霊、青びょうたん。思いつく限りの悪口を並べたが、言われ慣れているらしい彼女はまるで動じない。
「仰るとおりです。私は自分が寛容な性格だとは思っていません。無理をしてもお互い消耗するだけですから、私たちはこれで終わりにしましょう」
今村スミレは、そう言って背を向けた。
なんてことなの、まるで恋人同士の別れの台詞みたい。今時ドラマだってそんな寒い台詞言わないわよ。
あの時と同じ、無防備な背中。怒り狂った私に襲われても構わないと思っているのか、あるいは私にそんな度胸などないと見抜いているのか、完全に舐められている。
そしてそれは当たっていた。この子を殺しても、私が勝ったことにはならない。
この子は私より下の存在なのよ。あなたを見直しました、尊敬します、お友達になって下さい──そう言われなければ、意味がないのに。
あのおんぶは、何だったわけ?何もかも私の勘違いだったって言うの?人を食うのがそんなにいけないことなの!?
だったら、あの男を食っていいなんて許可を出したこいつは何なのよ!
もはや私は思考の限界を迎えていた。その場にくず折れる私を、少女は一度だけ振り返った。
「相馬さん。最後にこのワンピース、どこで盗んだのか教えてください。洗って元の場所に戻して参ります」
※
室内には二人の人間がいた。頭から血を流し、床に倒れている奥さん。それを見下ろす赤ら顔の男。
男は、相当暴れまくったらしい。食器棚が倒れ、皿や茶碗が散乱、破片が散らばっていた。それを踏んで歩いても、私の足の裏には一切の傷がつかない。心はそうでもなかったけど。
あの子の言っていた薔薇の花は花瓶に活けてあったようだが、それも花瓶ごと粉々にされていた。もともと、この男が奥さんのために買った花だというのはあの子の勝手な思い込み、妄想だ。おおかた、会社かどこかで押し付けられただけに違いない。男が花を持っている、イコール妻に贈るなんて、いかにも恋愛経験のない少女が考えそうなことだ。
この夫婦の間に何があったかなんて、私たちは知らない。ただ、この男の暴力が今村スミレの良心を傷つけた、それだけははっきりしていた。
あの子が与えてくれた最後の生きる機会を、この男は奥さんの存在ごと、土足で踏みにじった。そのせいで私は今、こんなにも辛い思いをさせられている。
ぱきり……
踏まれた陶器の音で、私の侵入に気づいた男が振り返る。
「な、何だお前は!何の用だ!」
男は、うすら笑いを浮かべて近づいた私を見て、血相を変えていた。
そのでっぷりと太った美味しそうな体に、私は優雅に、白い二の腕を巻きつける。
「やけ食いに来たの……」
お腹はあまり空いていなかった。でも、これが食わずにいられると思う?
怒りの行き場を失くした私は、強引に男の唇を奪った。そのまま床に押し倒す。口の中でぐちゅぐちゅと唾液を混ぜ合わせ、男の胃に流し込んでいく。
この男が、何もかも悪い。こいつがちゃんと改心して奥さんに優しくしていれば、今村スミレは私にあんな八つ当たりはしなかった。
信じていた性善説とやらを裏切られて、彼女は身近にいた私に憤りをぶつけて来たのだ。そうでなければ、この美しい私が冷たく拒まれる理由は無い。
私たちは、曲がりなりにも1年間、うまくやっていたのだ。
この男がそれを台無しにした。この男が……!
「ん、ぐご、ふごむむむ」
息苦しいのか、男はじたばたと手足を振り回すけれど、人外の私の怪力にはかなわない。
「どう?今までストレスのはけ口だった『女』に、はけ口にされる気分は?」
耳元で囁くと、男が目を見開いた。私が何者かは分からなくても、命の危険は察したのだろう。
でももう遅い。もっと早く奥さんに謝るべきだったわね。
「ひっ、ひいいいい」
男に覆いかぶさり、ゴシゴシと、裸体をこすりつける度に白い泡が生まれる。
リビングで泡まみれになりながら、私は奥さんがいつ目を覚ますかのスリルに身を委ねていた。
乳房を押し付けているから、快感は覚えているに違いないが、摩擦のたびに男の胴体は、石鹸がすり減るように小さくなって行く。
体が段々平べったくなって行くのを目の当たりにして、正気を保てる方がおかしい。そっとペニスを握ってやると、ぶしゃっと男は失禁した。
黄金色の液体が、私のお臍のあたりに容赦なく振りかかった。
「汚いわね。私の泡で綺麗にしてあげる」
こんな汚いものが平然と生を謳歌しているのに、私たち液状人間は、誰にも縋れないままで。
「や、やめろおおお!」
指で前後にこすっていくと、ペニスは次第に小さくなる。萎んでいるのではない、削れているのだ。
男の大事なものを奪われる悲しみに、男は悲痛な声を上げて暴れ出した。いやだ、いやだと。
私は駄々っ子に言い聞かせるように言ってやる。
「こんなの、必要ないでしょう?だってあなたは……なんだから」
教えてやると、男はさらに青くなった。
「そ、そんな!俺は健康体だ!子供が出来ないのはこのデブ妻のせいで……!」
私は床に倒れて白目を剥いている奥さんを見る。もしかしたら死んでいるのかも知れないが、今の私にとってはどちらでもいいことだった。
とろり。音もなくペニスが溶け、泡の中に消えた。小さくなった石鹸が、排水溝に吸い込まれるように。
男は蒼白な顔でそれを見ていたが、やがて必死に泡の中に手を入れてまさぐる。拾って付け直しでもするつもりだろうか、無駄なことを。
失ったものは二度と戻らないのよ──夫婦関係だろうが、友達だろうが。
私は騒がしい男を再び床に押し付け、顔全体を綺麗に舐めまわした。不細工な鼻、口、目を舌で抉り出し、のっぺらぼうにしてあげる。
「………」
男はもう何も言えなくなった。
口の方はようやく静かになったが、酸素の行きわたらなくなった体はびくんびくんと痙攣していて鬱陶しい。
体全体を唾液で光らせて、それに飽きると、暴れる腕を胸の谷間に挟んで、スポンジのようにしごく。すっかり細くなった腕は白い骨を晒し、ところどころに神経の筋を残すのみとなった。
足は、股間に挟む。木登りの動作でキュッキュッとしごくと、足の付け根から肉がぼとりと落ちた。それも全て泡の中に吸収されていく。
「げ、ぷ……」
ゲップとともに、口の端から液体が零れてしまう。ここまで肥えた男を食べるのは初めてで、私はもうお腹がいっぱいだった。
こんな暗い気持ちでなければ、さぞかし美味しい餌だったに違いないのに。苦しませながら食べるために手足の捕食を優先し、一番おいしい内臓を後回しにしてしまった。
満腹になると、私は男の服をキッチンで濯ぎ、室内に干しておいた。
最後に残った胴体を、じっと見つめる。
散らかしたままにしておくのは、私の美学に反する。こんな時捕食系の仲間がいれば、彼女に譲ることも出来たのだろうが。
私は思い立ち、胴体を持って男の家を出た。しばらく歩いて、その辺の草むらに胴体を放りだす。放っておけば、捕食系の誰かが見つけて食べるだろう。
そのまま夜のうちに街を出た。それから数年、私は何を食べる気もしなかった。
※
嫌な思い出のある渋谷に、再び足を運ぶ気になったのは、単純に、地方に餌がなくなったからだ。
液状人間の数は、年々増えているらしい。そして、私たちが無闇に狩るせいで、「条件」を持つ男の数も減ってきている。
地方に点在するお仲間は、元々その土地の出身だったこともあり、意地でもその場所から動かない輩も多い。土地勘がないと、よそ者の私には分が悪い。
餌の取り合い、同族との縄張り争いに疲れ果て、私は命からがら、東京へ逃げて来て、何とはなしに渋谷の繁華街へ向かった。
そして、目を疑った。
駅前のブティック(今時の子はショップと言うらしい)に、今村スミレがいたのだ。
しかも、見たことのない男と一緒だった。背の高い、優しそうな青年は、私がこれまで付き合った男たちとは比べ物にならない、断トツにいい男だった。
二人で楽しそうに買い物をしている。今村スミレがお金を持っているはずがないから、支払いは全てあの男性がするつもりなのだろう。
高身長で金払いもいい……。少なくとも、三高のうちの二つは満たしている。多少落ち着きがなさそうには見えるが、あの子にはそのくらいの男の方が合っているのかも知れない。
信じられなかった。彼女が人外の、液状人間であることを知ってなお、一緒にいてくれる器の持ち主がいるなんて。バブルが弾けてから、腐り切ってしまったと思われたこの国の男も、まだ捨てたものではない。
ついぞ恋人らしい恋人が出来なかった私としては、羨ましいのは確かだった。でも妬みはなかった。あの子が幸せで良かったと、素直にそう思えた。
今村スミレは、もうボロい服は着ていない。以前よりヘアスタイルも整っていたし、今時の女の子が着るようなお洒落な服を着せてもらって、とても可愛がられているようだった。
「なあなあ、スーちゃん。こっちの帽子も被ってみない?」
青年はネアカなのか、単なる馬鹿なのか、女性客に混じって臆することなく衣類を漁っていた。
そして周りの客や店員たちも、迷惑がるどころか、微笑ましいものでも見るように、二人を見守っている。
「い、いいです帽子は……」
たじろぐ少女に、青年は満面の笑みで帽子をかかげる。
「いいってことはOKってことだな。よし、まずはこの赤いのから試そうか」
「ですから、やめてください!私は頭でっかちですから、帽子なんて大の苦手なんです!」
「そんなことないって、髪が真っ黒だから凄く映える……あれ、全然入らないな。おれはすっぽり入るのに、おかしいなぁ」
ぐいぐいと少女の大きな頭に帽子を押しこみながら、彼は不思議そうな顔をする。
「店長さんわざとやってませんか」
被り切れずに頭の途中で止まっている帽子の下で、今村スミレは恨めしそうな声を出す。
「あっはっは、めんごめんご。じゃあもう少し大きいサイズのにしよ」
「全く……」
呆れながらも、今村スミレは照れたように頬を染めていた。私と一緒にいた時には決して見せなかった表情だった。
ちゃんと購入したものなら、あんなに嬉しがるのか。いや、それだけではない。買ってくれるのがあの青年だからだろう。
それを見て私は確信した、今村スミレは、拠り所を見つけたのだと。
寂しかったのは彼女も同じで。
もしもあの時、私が素直に、あなたと友達になりたいと言っていれば、関係は続けられたのかも知れない。
でも、私の美しさから来るプライドが、それをさせなかったのだ。
ブスの彼女は、私に本気で求められていたことなど、夢にも思わなかっただろう。だからこそ、あんな冷たい態度に出た。
利益もなしに自分と一緒にいようとする存在が信じられなかったから、恐らくは、私が悲しんでいることにすら気付かなかった。
でも今は違う。受け入れてくれる宿主を得て、彼女は本当の意味で人間らしさを取り戻したのだ。
どうか幸せに。もう会うこともないだろうけど。
「ごちそうさま」
呟いて、らしくもない感傷に浸りながら、私は今日も、男を漁るために街を這う。
──私の名前は、相馬千砂。未だバブルの怨念を引きずった、肉食系女子。