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    #ジャンルごちゃまぜ二次創作やオリジナル小説置き場(21禁)#

    ジャンルごちゃまぜ二次創作やオリジナル小説置き場(21禁)

    愛玩情史

    【ヨリドコロイド】三日月のかけら

    店長さんが、ソファの上で爪を切っています。
    私はいつ気づいてくれるかと思っていましたが、一向に気づく気配がありません。
    やはり、こちらから切り出した方がいいのでしょうか。洗濯物を畳む手を止め口を開いた途端、店長さんが顔を上げておっしゃいました。

    「あのさ、スーちゃん」
    「はい」
    ようやくわかってくれたのか、と思ったのは早計でした。
    店長さんは、とても三十半ばには見えない可愛らしい童顔を私に向け、モデルのような長い足を床に落ちつけると、不思議そうに首を傾げました。
    「俺が毎月渡してるお小遣い、どうしてるの?何も買ってる形跡ないけど」
    私は軽い落胆を覚えつつ、店長さんの質問に答えます。
    「それはもちろん、大事に封筒に入れて、タンスの引き出しの中にしまってありますよ」
    店長さん──FCと言うスーパーマーケットの店長を務めている、飯尾和成さんの体に寄生するようになってから、とても幸福な時間が過ぎて行きました。
    店長さんもその奥様も、実の娘のように私に良くして下さり、専用の部屋やお小遣いまで与えて下さいました。
    お小遣いは、月に一万円ほど頂いています。けれど、人ならざる身である私にはそのお金を使って何かをすることなど恐れ多く、ためらわれます。
    私の答えに、店長さんは私以上にがっかりした顔をされました。
    「何でそんなおばさんみたいな真似を……」
    「おばさんなんですから、仕方ないじゃありませんか」
    私──今村スミレは、享年十八歳の『寄生系』液状人間です。不妊男性の体内に寄生し、糞尿をすすって生きる忌まわしい存在です。
    病死せずに現代まで生きていれば、店長さんのお母様と同い年の団塊世代であり、世間的に見れば充分におばさん、いえ、孫がいてもおかしくない年齢なのです。
    「もしかして遠慮してる?家の事手伝ってくれてるんだし、気にしないで何でも欲しいもの買っていいんだよ」
    そうおっしゃられても、本なら図書館で読めますし、着飾ることにも興味はありませんでしたから、本当に欲しい物などないのです。
    私のこの醜い容姿を人様に晒す事になりますから、外出もなるべく控えたいくらいです。
    けれど店長さんは、私を着飾って連れ回す事がお好みのようで、断る理由に困ってしまっています。
    「生きてれば普通、あれが欲しいこれが欲しい、ってなるんだけどな。スーちゃんって本当に欲がないんだなあ」
    欲がない?それは違います。
    私には、店長さんの知らない、人一倍大きな欲がありました。世界中を巻き込み人類の歴史を塗り替えてしまうほど、とてつもなく大きな欲です。
    「男性の考えを変えさせたい」という欲望。先人が何度も試みて、その度に失敗してきたであろう案件です。この願いを叶えるために、死してもなお、寄生する化け物として生まれ変わったに違いありません。現に私は今も、この無邪気な男性の愚行を止めさせるために、言葉を紡ごうとしているのです。
    「欲を出せとおっしゃるのなら……僭越ながら、一つよろしいですか」
    「うん?」
    私はため息をつきながら、店長さんの足を見つめました。
    「先程から、言おう言おうと思っていたのですが……」
    この期に及んでも、店長さんはきょとんと私を見ていらっしゃいます。
    私はいたたまれなくなって立ち上がり、テーブルの上にあったチラシを手にとりました。
    それを店長さんの足元のカーペットに敷き、彼を見上げる姿勢になって告げました。
    「爪を切る際には新聞紙か何かを敷いて下さるよう、以前も申し上げましたよね?」
    「ああ……」
    店長さんは、まるで夢から醒めたばかりのように、その大きな目をぱちぱちさせました。
    「奥様のお掃除が大変になるからと。それに今は夏ですから、素足でいる事が多く、踏んだら足のひらが傷ついてしまうかも知れません」
    「うん」
    「この間もその後も、もう何度も申し上げました。どうして聞き入れては下さらないんですか?」
    極力感情的にならないように告げたつもりですが、肝心の店長さんの方が感情的でした。
    「頭ではわかってるんだけど、そのう……俺も仕事で疲れてるし」
    店長さんは頬を掻き、顔をそむけました。
    男性がよく使うこの手の言い訳は、現状には該当しないと私は判断しました。
    「仕事でお疲れになっていることと、爪を散らかすことに、どのような関連性があるのでしょう。ましてや今日はお仕事はお休みで、朝から日課のジョギングをなさって来たばかりじゃありませんか」
    「じゃあジョギングで疲れてる……」
    「それは確かに、お疲れ様です。ですが、すぐ近くのテーブルの上に置いてあるチラシを取って足の下に敷く事に、それほど労力を要するとは思えないのです。私がこの件について店長さんをお諫めするのは、既に五回目になります。今日こそは途中で気づいて下さると、私は辛抱強く待っていたのですよ。奥様の手を煩わせても、どうしても爪を散らかさなければならない正当な理由がおありになるのなら、どうぞ私に説明して下さい。それが納得できる理由であれば、無礼をお詫びします」
    「あー」
    店長さんは私の顔をじっと見て、それから笑顔になって、そっと頭の上に手を置かれました。
    「もしかしてスーちゃん、今日機嫌悪い?」
    「!?」
    またしても、全く関係のないことを口にされ、私は目を瞠るほかはありませんでした。
    私は、『爪を切る時は何か敷いて欲しい』と告げたのです。決して実現が困難な要求ではないはずです。
    これほど懇切丁寧に説明したと言うのに、店長さんにはそれが伝わらず、私の機嫌が悪いから怒られるのだ、という結論に達したようでした。
    「女の子ってそういう時あるよな、急に怒り出したりとか。うんうん、俺は許容あるからちゃんと受け入れられるよ。ずっと家の中にいるとそうなるよな」
    「…………!?」
    私の頭の中では『会話不能』『理解不能』の四文字が交互に躍っていました。
    もう何日も前から同じことを注意しており、いつか改めて下さると信じ、出来ないのならせめて理由が知りたい、と努めて冷静に口にしたつもりでしたが、それが店長さん流の解釈によると、「機嫌が悪く、急に怒り出した」ということになっている模様です。
    私の説明の仕方に不備があったのでしょうか。だとしたら伝わらないのは仕方ありませんが、機嫌が悪いという判断の根拠は、店長さんの感情の中にあるとしか思えませんでした。
    機嫌が良いか悪いかという二択ならば、確かに悪い方に分類されるでしょう。しかし、だから私の言う事は聞けない、という主張ではないようですし……。
    二の句が継げなくなっている私をぎゅうっと優しく抱きしめると、店長さんは耳元で囁かれました。
    「そうだ、来週の休みに、遊園地に連れて行ってあげるよ。何を怒ってるのかわからないけど、それで機嫌直して?」
    ……若い方が冗談で用いる『頭痛が痛い』という重複表現は、まさに今の私に当て嵌まっていました。

    店長さんをどうにか振り切り、這うようにしてキッチンへ向かうと、そこでは奥様がお夕飯の支度をしていらっしゃいました。
    丸みのあるふくよかなお体は、思わず後ろから抱きつきたくなるような逞しい母性に溢れています。
    私たちの会話が聞こえていたようで、苦笑いを浮かべながら「大変だったわね」と労って下さいました。
    「でも男の人なんて、皆あんなものよ。スーちゃんみたいなきちんとした子から見たら納得がいかないだろうけど、どうかあの人の事嫌わないでね」
    つまり、奥様も店長さんと話が通じない時がある、という事です。私はまだ痛む頭に手をやりながら、静かに首を横に振りました。
    「嫌うだなんて、とんでもない。お気遣いありがとうございます、奥様。洗濯物が片付きましたので、こちらもお手伝いします……」
    女性同士なら、説明するまでもなくこのように労りあえると言うのに、なぜ男性相手だとあのような不可解な事態が生じてしまうのでしょうか。
    「ありがとう。私の代わりに和くんに色々言ってくれるから、ほんと助かるわ。って、こんなんじゃ妻失格かしら?」
    「いいえ……お気持ちはわかります」
    あの店長さんを、今まで一人であしらっていらっしゃった奥様には、本当に頭が下がります。
    店長さんの体にさえ入っていれば、私が疲れて倒れるといったことはありません。ですが、奥様はあくまでも生身の人間なのです。
    奥様のお名前は、飯尾彼方さんとおっしゃいます。私がこの家に来た当初から大歓迎して下さいました。化け物と罵られるはずが温かく受け入れられた、その理由が謎でしたが、近頃わかるようになってきました。
    お二人はとても愛し合っている素敵なご夫婦ですけれど、お子さんが出来ない原因が店長さんにあることで、お互いに気を遣い合ってぎこちなくなっていた時期もあったそうです。
    それが、私が間に入る事によって、店長さんの愛情が私にも向けられるようになり、好意が分散されたと申しますか……。
    子はかすがいとはよく言ったもので、私が店長さんをあやしている間に、奥様はご自分の事が出来るので、ずいぶん気が楽になったとおっしゃって下さいました。
    「奥様はなぜ、店長さんとご結婚なさったんですか?失礼ながら、奥様も大人しい方ですから、振り回されて疲れる事も多いでしょうに」
    店長さんは決して悪い人ではありません。いつも明るく職場の方にも慕われていらっしゃって、お客さまに対する気遣いも細やかです。
    けれどああいう方ですから、あまり論理的な思考は期待しない方が良いのかも知れません。こちらが消耗するだけだと学びました。
    「だって、捨てられた子犬みたいな目をして、『付き合って。だめ?』なんて言われたのよ。それで断れる女がいたら見てみたいわ」
    「最初はお好きではなかったのですか?」
    「私の友達が彼の友達と付き合ってたから、話はよくしてたし、好感はあったわよ。でもそれ以前に、あんなイケメンが私を好きだなんて、信じられなかったわ。ほら、私って昔からおデブだし」
    「そんな……近頃の女性が痩せすぎなんですよ」
    「スーちゃんだって小柄で痩せてるじゃない。でね、あの人、誰に対してもあんな感じでフレンドリーでしょう?てっきりいつもの冗談だと思って、『またまた~』って言ったら、『俺本気なんだから、茶化さないで。好きなんだ』って真剣な顔されちゃって、こう、キュン……っとね。わかる?」
    わかりますけど……。
    好き、という気持ちを持続させるのがどれほど困難か、私は知っています。
    店長さんと出会う前、私は数多くの男性の体に入り、その体を通じて、様々な家庭を覗き見して来ました。
    愛し合って結婚したはずなのに、妻に暴言をぶつけたり、暴力を振るったり、酷い場合には殺してしまったり、そんな悲しい夫婦を何度も見ています。店長さんと奥様まで、そうなって欲しくはありません。
    奥様は、男の人なんて皆あんなもの、とおっしゃいましたが、店長さんがたまたま感情豊かな男性だからと言って、全ての男性が感情的だとは私は思いません。
    男性だから仕方ないと許してしまう事は、男性の思考能力が女性よりも劣っている、という認識を広めてしまう結果に繋がりかねません。
    男性憎悪から誕生した化け物が何を言うか、と思われるかも知れませんが、私たちは男性に一家言あるからこそ、極端な差別はしたくないのです。嫌いではあっても見捨てられはしない。『寄生系』というのは色々と、複雑な性格をしています。


    夕飯を食べ終えた店長さんは、先にリビングに戻りテレビをつけながら、入口に立っている私に向かって手招きなさいました。
    「スーちゃん、こっちおいで。一緒にテレビ観よ」
    いつものようにお膝の上に乗せて抱っこして下さるのだと判りましたが、私は今日は従いませんでした。
    その代わり、静かに膝を折り、店長さんの前に三つ指をつきました。
    「スーちゃん?」
    怪訝そうな声を遮るように、私ははっきりと自分の意思を伝えました。
    「申し訳ないのですが、二、三日お暇を頂きたいのです」
    「えっ、なんで!?」
    ここまで予想通りの反応をされる男性も珍しい、と私は思いました。
    「理由は、店長さんが一番よくご存じのはずです」
    「わかんない」
    またしても即答でした。
    私は体から力が抜けて行くのを感じながら、深くため息をつきました。
    「考える時間を差し上げます。私もたまには、外の風に当たらないといけませんし……」
    「和くん、あまり困らせちゃ駄目よ。スーちゃんだって一人になりたい時があるでしょう」
    キッチンで洗い物をしている奥様が、首だけこちらに向けて助け船を出して下さいます。
    奥様には弱い店長さんは、うう……と犬のような唸り声を上げ、上目遣いに、悲しそうな目でこちらを見つめています。
    確かに、この愛くるしい表情に逆らえる女性は少ないでしょう。ただし、人間の女性であればの話です。
    「だって、俺から離れたらスーちゃんだって困るだろ。その間ごはんどうするの?」
    「他の男性の体に寄生しますよ」
    「えっ、やだ!」
    あからさまな嫉妬に、呆れと愛しさが混じった複雑な感情が、私の胸を締めつけました。
    「何をいまさら……店長さんを宿主に選ぶ以前は、それこそ色々な男性の体内に、無断で入っていましたよ」
    「過去は過去だろ、気にしないよ。でも、今のスーちゃんの宿主は俺だろ?俺以外の男の体に入るなんていやだ」
    「駄々を捏ねないで下さい」
    子供のいない男性はいつまでも子供っぽい、などという偏見は良くないですが、店長さんに限っては当て嵌まると思えます。
    本当に、この人の感情を丸ごと受け止めている奥様を尊敬します。
    結婚というのがひたすら我儘な男性のご機嫌を取る事ならば、私は生涯独身で構いません。実際にそうなったわけですが……。
    「男の体に入らずに栄養取る方法ないの?そうだ、俺のう○こを容器に入れて持ってけば?いわゆるお弁当だよ」
    「店長さんには恥じらいと言うものがないのですか」
    「いい年したおっさんにそんなもの求められても……それより、スーちゃんを他の男に取られないようにする事の方が大事」
    先程まで子供だったのに、都合が悪くなると中年男性に変わりました。
    「私、そんなに簡単に心を移すような女ではありません。それに排泄物を持ち歩いたら、匂いで周りの方々の迷惑になります」
    私の物言いは冷たく聞こえるかも知れませんが、この時は半分照れ隠しもありました。
    店長さんは、私や奥様に対する好意を、日頃からはっきりと口になさいます。
    不美人であるがゆえに、父親以外の異性に愛情を向けられた記憶がない私は、店長さんの真っ直ぐな気持ちに対して、未だに戸惑いを隠せません。
    女性の価値は見た目ではない、外見で判断してはいけない──世間ではそう言った甘言を聞く事は多いものの、それを名実ともに実行している男性となると、なかなかいないものですから。
    「でもさー、君みたいに潔癖で男嫌いな子が、『男の体に入らずに済む方法を、今まで一度も考えなかった』とは思えないんだよな」
    「……」
    妙なところで勘が鋭い方です。
    「本当は方法があるのに、意地悪して隠してない?」
    このままではいつまで経っても解放してはくれなさそうです。私は観念する事にしました。
    「そうですね……確かに、方法はなくもないですが」
    途端に、店長さんの顔がぱっと輝きました。
    「やっぱりあるのか。ごねて正解だったな」
    「店長さんのように生きられたら幸せでしょうね……」
    「皮肉はそのくらいにして、早く教えて。どうすればいい?」


    その夜、「寂しい」を連呼する店長さんを奥様と二人でどうにか寝かしつけ、私は夜明けとともに飯尾家を出ました。
    それでどこに行くの、と店長さんに聞かれた際、迷わず「遊園地です」と答えました。その時の店長さんの表情を思い出して、私はくすくすと忍び笑いを漏らしました。
    そんな、外見のみならず性格も意地悪で歪んでいる私を、どうして店長さんは可愛がって下さるのか。その好意にうまく応えられず、この身に染みついた男性不信から、共に暮らしていても彼の悪いところばかり目につき、批判してばかりいる。それでいて、店長さんに買って頂いたお洋服や靴を身につけて出かける、この矛盾。
    ──男に寄生しなければ生きていけない癖に。
    そう言ったのは、どこの捕食系であったのか、私はもう覚えていません。男性の肉体そのものを食らって生きる捕食系には、私たち寄生系は、男に媚びるあさましい種と思われているのです。
    朝もやの街を駅へと向かって歩きながら、私はショルダーバッグから小さな瓶を取り出しました。その中には、店長さんの爪や髪の毛がぎっしりと詰めてありました。
    爪からはカルシウム、毛髪からは鉄分が取れます。尿からはビタミンC、便からはタンパク質。私たちの必要としている栄養素は、実は人間とさほど変わらないのです。
    瓶を傾け、手のひらの上に爪を少し出し、口の中に放りこみました。
    三日月のかけらのような、店長さんの爪。慕っている人のものなのだと思うと、心なしか甘いような気がします。
    これで当分のおやつ代わりにはなります。でも非常食のようなものですし、店長さんの体内の心地良さには、比べるべくもありません。
    私は自分で思っているよりずっと、店長さんに依存しています。好きだよ、大事にする、と囁かれるたびに、自分と言う存在が溶けて、彼に向かって流れ出してしまいそうになります。
    でも、それでは私も店長さんも駄目になってしまう。彼も私の欠点を指摘するべきだし、私も彼の優しさに甘えず、悪いところは直すべきなのです。
    私の方こそ、少し頭を冷やす時間が必要でした。

    電車を乗り継いで、一番近い遊園地に辿り着いた頃には、お日様がだいぶ高く昇っていました。
    券売機でチケットを買い、乗り物の順番を待っている人の列に並びました。夏休み前の平日だからか、思っていたより人は少なく、さほど待たずにジェットコースターとやらに乗る事が出来ました。
    遊園地に来たら、必ず乗るものだとされるジェットコースター。カーブを曲がったり落ちたりするたびに、同乗した人々が歓声を上げていましたが、これの何が楽しいのか、私にはわかりません。わざわざお金を払って怖い思いをしようとするのは、世が平和な証でしょうか。
    その後は何に乗る気にもなれず、ベンチに座って、しばらくぼんやりと人の流れを見ていました。
    「ちぃーす、スミスミ。お久しぽよ」
    不意に、後ろから肩をぽんと叩かれました。
    振り返った先には、黒のミニスカートに包まれた胴体が見えました。顔を上げれば、人懐っこい笑顔。私はすぐに該当する人物を思い出せませんでした。
    「……あの?」
    何か、光りものが沢山ついた、きらびやかな服装に身を包んだ、いかにも現代風の女の子が、そこには立っていました。
    私を知っている事と、人目を引く美しい容姿を持つ事から、『捕食系』であるのは間違いありません。
    しかし、人の顔と名前を覚えるのが極端に苦手な私は、その方の名前を自信を持って呼ぶことはできませんでした。
    「あれ、忘れた?性技の味方、高須イオナですwww」
    「ああ」
    思い出せない私を不快に感じた素振りもなく、笑って告げるその性格、ようやく思い出しました。
    数年前、とある事件で知り合った高須イオナさんは平成生まれで、いわゆるギャルと言われる享年十七歳の少女です。
    捕食系の例に洩れぬ美しい方で、段の入ったキャラメル色の巻き毛とぱっちりとした瞳、すらりと伸びた手足は、まるでリカちゃん人形のよう。死んだ当時の年頃は同じでも、何もかもが私とは正反対でした。
    捕食系と慣れ合う気はない私ですが、この方は仲間意識や正義感といった感情が人一倍強く、どこか憎めない快活さを持っています。
    「お久しぶりです、イオナさん。今日はお一人で?」
    「ん」
    イオナさんは私の隣に腰を下ろすと、下着が見えてしまいそうな角度で、お行儀悪く足を組みました。
    行き交う人々、特に若い男性が、ちらちらとイオナさんの足を見つめているようなのは、決して気のせいではないでしょう。
    「スミスミこそ、今日はテンチョーさんいないの?団塊がひとり遊園地とか現代的じゃん?」
    「たまには、いいかと思いまして」
    私が沈んでいる様子でいるのに、イオナさんは気付いたようです。香水の匂いを漂わせながら身を乗り出してきました。
    「もしかして喧嘩した?じゃあテンチョーさん今フリー?食っていい?」
    「駄目ですよ」
    恐らく本気ではないのでしょうが、私はそう答えておきました。
    店長さんは、捕食系であるイオナさんを酷く嫌っています。被食者が捕食者を避けるのは当たり前ですが、彼女が多くの中年男性が顔を顰めるギャルという種族である事も、理由の一つに違いありません。イオナさんもそれをよく知っていて、店長さんをからかうのを好んでいるようでした。

    ふと誰かの視線を感じてそちらを見ると、ジェットコースターの柵に寄りかかって談笑していた若い男性の三人連れが、私とイオナさんを見て何やら囁き合っています。
    「見ろよ、あの子ら」
    「すげえ顔面格差……」
    「現実って残酷だよな~」
    囁きが耳に入り、ただでさえ沈んでいる気分が更に落ち込んでいく気がして、私は俯いてしまいました。
    これだから、外に出るのは嫌なのです。世の中は悪意に満ち溢れており、私は家の外では絶えず異性のこんな視線を浴びせかけられてきました。
    病弱で顔色が悪い事もあり、幽霊、お岩さんと陰口を叩かれた事も、面と向かって死人と言われた事もありました。
    お望み通り死んでしまった今も、私に向かってあの暴言を吐いた男子たちは、ごく普通に結婚して子供を作り、孫も産まれ、この空の下で幸せに暮らしている……。
    普段は理性で抑え込んでいる、どす黒い感情がお腹の底から突き上げてきます。
    店長さんと出会って、とても大事に扱われて、彼が生きている限り、もうこんな思いをすることはないと思っていたのに……。
    「美人の子も、なんでわざわざ隣に座るかね。ブスが引き立って気の毒に」
    「顔の大きさ一回りは違わね?ツイで検証してもらおーぜ」
    「ちょ、お前撮るならばれないようにしろよ」
    隣から気配が消えたので顔を上げると、イオナさんが私から離れ、男性たちにつかつかと歩み寄っていました。
    「ねえ、今ウチらのこと撮ったでしょ?見せてよ」
    「はあ?」
    話しかけられるとは思わなかったのか、男性たちは一瞬狼狽しましたが、すぐに下卑た笑みを浮かべて対応しました。
    「因縁つけんなよ。絶叫マシーン撮っただけだよ」
    イオナさんは細い腰に手を当て、もう片方の手を男性たちに向かって差し出しました。
    「じゃあスマホ見せな?写ってないなら見せられるよね?」
    「やだよ、それにウチらって何。アンタだけならともかくそこのブスまで撮るわけねーじゃん」
    「おい言うなよー。聞こえるし、可哀想じゃん」
    どっと笑いが起こります。
    可哀想なのは、この男性たちだ。私は強くそう思いました。
    「………」
    イオナさんは目を細めると、口の中で何事か呟きました。クズが、と言ったのだと後に教えてもらいました。
    彼女の手が瞬時に1メートルほど伸びて、離れた所にいる男性の手からスマートフォンを取り上げました。
    伸ばした巻尺が元に戻る時のような速さでした。私は視認出来ましたが、人間の男性には速すぎて、何が起こったのか見えていないはずです。
    「え……あ?」
    男性たちが茫然としている間に、イオナさんは端末を器用に操り、中に私たちの画像が入っていることを確認した模様です。
    「やっぱ撮ってんじゃんwそんなに写真好きならアンタらも撮ったげるよ、はい目線こっちw」
    カシャ、と音が鳴りました。
    撮られたと気づいた途端、男性たちは血相を変えてイオナさんに掴みかかりました。
    「てめえ!」
    「あれー何切れてんの?勝手にツイに晒そうとするなら、自分らも同じことされて当然だよねw」
    「消せ、いますぐ消せ!!てか返せ!」
    「はいはい、消しますよ、返しますよ、物理的に♪」
    バキリ、と無残な音がして、スマートフォンは二つ折りになりました。
    素手で機械を折り、地面に叩きつけたイオナさんに、男性たちは顔色を変えました。
    「な……お……」
    「お望み通り、機能を消して、土に還しましたwwwww」
    そう言い放つと、イオナさんはもう彼らに興味を失ったらしく、笑顔でこちらを振り向きました。
    「いやー、いい事した後は気分いいわー。行こっか、スミスミ♪」
    背後で男性たちが何事か喚いて、こちらに駆け寄ってくるのが見えます。
    イオナさんは座っている私の手を引き、実に楽しそうに「だっと!」と叫んで走り出しました。
    走り出す際の「だっ」という擬音と、「脱兎の如く逃げ出す」の脱兎をかけているのでしょうか。相変わらず、奇妙な言語感覚を持っている人です。
    「──ありがとうございます」
    「何が?」
    「でも、暴力はいけませんよ、イオナさん」
    私のためにしてくれたのだと判っていて、私はそんな可愛げのないことを告げます。
    イオナさんは怒りませんでした。代わりに、にやりと笑いながら言います。
    「そうだね、言葉の暴力ってほんとタチ悪いよねw」
    「もう……」
    私は苦笑しながら、彼女に引きずられるままに走りました。
    蓮っ葉な口調の裏に隠された、弱者への思いやりと義憤。こういう人だから、私はイオナさんを憎めないのです。


    「ねえ、やっぱ今日元気なくない?いつもならあんな連中、言葉でひとひねりっしょ」
    男性たちをどうにかまいた後、私とイオナさんは、観覧車に乗って夕暮れの街並みを見下ろしていました。
    ずっと口を利かない私を、イオナさんは心配して下さっているようでした。
    「テンチョーさんと何かあった?話すだけでも、気ぃ楽になるかも」
    店長さんと言いイオナさんといい、私はどうも、特殊な性癖を持つ美形に好かれる傾向があるようでした。
    生前も、男子には苛められてきましたが、女子の友達はそこそこいましたし、特に美人は心も美しい方が多く、私に同情し男子の攻撃から庇ってくれました。男子も、美人に嫌われることを恐れて私にそれ以上暴言は吐けませんでしたので、それを学習した私はなるべく美人の傍にいるように心がけていました。
    ですが、今は事情が違います。捕食系と寄生系は、交わらない方が良い。それは私たち液状人間の暗黙の了解でした。
    私たちは基本的に群れで行動しません。同じ寄生系ですら、友人など作らない方が良いのです。男性に対する憎しみの度合いは個体によって大きく異なり、それが諍いを生みます。また、気が合ったら合ったで、同じ宿主を取り合ったりして、後々面倒な事になります。
    わかってはいたのですが、男性たちの暴言から守ってもらえた私は、イオナさんに対していつものような拒否が出来ませんでした。所詮は元苛められっ子、優しくしてくれる相手に冷たくする事は良心が痛むのです。
    「あなたに話しても仕方ないことですが……」
    私は重い口を開きました。なぜこんな口のきき方しかできないのか、我ながら自分が嫌になります。
    「店長さんが爪切りの際に爪を散らかすので、新聞紙かチラシを敷いて下さいとお願いしたのです」
    「ふんふん」
    「そうしましたら何故か、私を遊園地へ連れて行くというお話になりまして……」
    下らないと一蹴されるかと思ったのですが、意外にもイオナさんは、手を叩いて大笑いして下さいました。
    「あるあるあるあるwwwwありすぎて困るわwwwww」
    「わかってくださいますか?」
    その反応に私は安堵しました。店長さんと奥様としか会話をしない生活を続けておりますと、私の常識が間違っているのではないか、と思う時があります。
    ですから外に出て、他の方の意見を聞くことは大切です。もっとも、私たちは基本的に男性に対して辛辣な生き物であるため、客観性には乏しいかも知れません。
    「それな。『また女が何か言ってる、適当に機嫌とっとけ』的ないつもの脳内変換な。男は話を聞かない生き物だからね、仕方ないねw」
    「私を宥めようとする思考自体は理解できなくもないんです。ですが、遊園地はどちらかと言えば店長さんが好きな場所であり、私の好きな場所ではありません」
    「言える。スミスミと遊園地の親和性のなさは異常」
    失礼なことを言われましたが、お互い様なので、私はそれには触れずにおきました。
    「機嫌を取るためには、相手の喜ぶことをしなければ意味はないと思うのですが、どうもあの方は『自分の喜ぶことは相手も喜ぶ』と思う傾向があるようで」
    「迷惑なプレゼントの押し付けとかな。で、喜ばないと切れるところまでテンプレなwww」
    「いえ、店長さんは私が思い通りの反応を示さないからと言って、怒ったり手を上げたりはなさいません。ご自分に至らないところがあるからだとお考えになったからこそ、遊園地に行くことを提案されたのでしょう」
    的は外れていますが、そのお気持ちだけは嬉しかったのです。
    「たくさんの男性とお付き合いされて来たイオナさんなら、数の問題で暴力的な方にも当たってしまうのでしょうが」
    「なにそれ皮肉?当たってるけどw昔リーマンと付き合っててさ~。ドライブして食事って言うからヒール履いてったら、その後展望台に行くとかで急勾配の坂道登らされたw最初に言っとけとwww」
    「まあ……。足は大丈夫でしたか?」
    「ニヤニヤ笑いながら『歩くの遅いな』って手ぇ差し伸べて来たwなるほど、これがやりたかったんだなと」
    「相手を不利な状況に追い込んで優越に浸る、ですか。小さいですね」
    自信に満ち溢れたイオナさんを少し困らせてみたいという気持ちは、他人に劣等感を抱きがちな私としては、何となくわかります。
    とは言え、思っていても行動には移さないのが理性ある人間なのですが、悲しい事に多くの男性は、好きな女性を苛めたり困らせたりして快感を得る事があるようです。
    化け物と化した今のイオナさんと私には戸籍がなく、また肉体による束縛を殆ど受けません。よって社会的抑圧を受けず、男性に面と向かって意見が言えるようになりました。
    女性を力で支配したい種の男性にとっては、私たちはさぞかし不快な存在でしょう。そんな女がこの世にいるはずがないと思いたい。だからこそ、普段は存在しないものとして看過されているのです。
    「ムカついたんでソッコー切ったら、案の定発狂してストーカー化してワロタわ。テンチョーさんもいずれそうなるんかね」
    「やめて下さい。全ての男性がそんな方と言うわけでは……」
    「どうだかwでもそっかー、それで当てつけにひとり遊園地?大人しそうな顔してやるじゃんwあの能天気なオッサンには、いい薬になったんじゃね?どうせ普段から、共働きなのに何もしないで、スミスミの家事スキルに頼りまくってたんだろうし」
    「……その通りです。これを機に、店長さんが反省して下さるといいのですけれど」
    「無駄無駄。反省する生き物じゃないよ、男ってのは」
    言い切ったイオナさんの、その瞳に浮かぶ冷徹な光に、私は胸を抉られる思いがしました。
    私たちの中でも、特に捕食系は男性への憎悪が深いのです。心ない男性によって強姦されたり、殺されたり、苦痛と絶望のうちに死を迎えた女性が、捕食系になる。
    その無念がわかるからこそ、私たちは捕食系を完全には嫌う事は出来ないのでした。
    「本当にそうでしょうか……私たちのしていることこそ、本当に正しいのでしょうか?」
    イオナさんは爪を気にしながら、私にちらりと視線をやりました。
    彼女の身につけているきらびやかな、私には何の素材で出来ているのかさっぱりわからない服装は、恐らく盗品でしょう。
    「イオナさんは、男性の作ったものを盗み、男性を捕食する悪い人です。でもその悪い人に、私は先程助けられました」
    「自分のためにやっただけだし、感謝される筋合いとかないし」
    顔をそむけるイオナさんに、私は言葉を続けました。
    「私は店長さんを非難して家を飛び出しておきながら、店長さんに買って頂いた衣服を身につけ、今ここにいます」
    「で?」
    何が言いたいのかと、若干苛々した様子のイオナさんに、私は救いを求めていたのかも知れません。
    「私には時々、何が正しいのか分からなくなります」
    「正しくなくたっていいんじゃん?誰もウチらを邪魔する奴なんていないんだし。その時その時で、自分が気持ちイイと思った事だけしてりゃいいの」
    快楽主義、ですか。本能に従う生き方、それはさぞかし楽でしょう。私がそれが出来るような性格なら、苦労はないのですが……。

    ガクン、と体が揺れました。
    何が起こったのかと私が窓から外を伺うと、全てのゴンドラが動きを止め、空中で立ち往生していました。
    しばらくして、無機質なアナウンスが流れます。

    『観覧車をご利用中のお客さまに、ご連絡申し上げます。ただいま、システム異常につき、一時運転を見合わせております。大変ご迷惑をおかけしておりますが、しばらくそのままの状態でお待ち下さい』

    途端にイオナさんは、目を輝かせて窓に額を押しつけました。
    「え、事故事故?面白れー」
    近頃の若い方は、どうして事件があるとこんな反応しかできないのでしょう。私はむっとして言いました。
    「面白いだなんて……不謹慎ですよ」
    「不老不死になって長いと刺激が欲しくてさー。って、あれ?」
    外の光景を見ていたイオナさんが、私の袖を引いて窓側に導きました。
    「見て見て、スミスミ。あれあれ」
    言われて私は外に目をやりました。私たちが乗っているゴンドラの斜め上、支柱の反対側のゴンドラの支えが外れかかって、風に煽られ、今にも落下しそうになっていました。
    乗っている男性たちの顔には、見覚えがありました。先程私たちを盗撮した方々です。
    「さっきスミスミを馬鹿にしたうんこマンたちじゃん。偶然w」
    「偶然のはずがないでしょう……怒りがおさまらず、追いかけて来たんですよ。平日で人もまばらな遊園地、私はともかく、目立つイオナさんを探し当てる事は容易です」
    ゴンドラはぐらぐらと激しく揺れており、中にいる男性たちにもそれがわかるのでしょう。恐怖に顔をひきつらせ、必死にゴンドラにしがみついています。
    イオナさんは爪をいじりながら、可笑しそうに笑い声を上げました。
    「あーこれはレスキュー呼んでも間に合いませんわ。天罰ってあるんだねwww」
    「何をおっしゃってるんです。彼らを助けないと」
    私が言うと、イオナさんは肩を竦めました。
    「スミスミ、頭大丈夫?あいつら助けて何の得があんの」
    「人命がかかっているんですよ」
    「助けたいなら止めないけどアタシはパス。てか、酷くない?アタシのさっきの好意を無にすんの?」
    「……先程はありがとうございました。でも彼らはもう、スマートフォンを破壊されると言う罰を受けたでしょう。罪に対して罰は1回で十分、過剰な罰は逆効果です。今でさえ彼らは、私を罵ったことを反省しているわけではなく、不審な少女に端末を壊された、と言う被害者意識のみを抱いているはずです。この上死んでしまえば、彼らは加害者ではなく被害者として、世間の同情を集め、最後まで自分が間違っていた事を知らずに逝ってしまう。私にはそれが我慢できないだけです」
    「ゴチャゴチャうっせーwアンタら寄生系が更生させたい(笑)とか抜かして、ちんたら時間をかけて男を教育している間に、人間の女は犯されて殺されてるのが現状だし。男がまともになるまで待ってる間に地球滅ぶわw」
    「そうとも限りません」
    「凶悪犯を片っぱしから殺してった方が、絶対早いって。テンチョーさんみたいな素直な男だけ残してさ」
    「暴力や恐怖による支配を、私は望みません。それでは男性と同じになってしまいます。私たち寄生系はあくまでも、男性の思想を内側から変えて行く」
    「言うても、容姿が不自由な女性(笑)に洗脳されるくらいなら、美人に殺された方がマシという気概のある日本男児(笑)も多いだろうしw」
    「そういう方は、お望み通りあなたが息の根を止めて差し上げればよろしい。ただし、いたずらに苦しませるのは悪趣味だと思います」
    「うん、やっぱ寄生系とは考え合わんわw」
    「そのようですね」
    私は冷たく答えて、バッグから新品のスマートフォンを取り出しました。
    「ちょ、それスマホの最新機種じゃん。そんなのまで持ってるの?」
    「店長さんは私に何でも買って下さいます」
    「あっそw良かったねwww」
    間に合わなかった時のために外部に助けを求める電話をかけ、私はイオナさんを置いて窓をこじ開け、ゴンドラの外に出ました。



    手を触手のように伸ばして、ゴンドラからゴンドラへ飛び移ります。
    観覧車に乗っている人たちが、驚いた顔で私を見つめています。
    『何だあれは、女の子が外にいるぞ』
    『腕が伸びてる。人じゃない、化け物だ』
    そんな顔をしている人々を見ないようにして、私は自分の仕事をする事にしました。
    彼らの真上に、ちょうど人が乗っていないゴンドラがありました。その窓を壊して中に入り、私は手にしたスマートフォンを固く握りしめました。
    彼らが閉じ込められているあのゴンドラの窓を割るためには、今のように触手を直接叩きつけて壊してもいいのですが、その強い衝撃でゴンドラが落ちてしまっては一巻の終わりです。とは言え、ここには小石もないですし、他に投げられそうな小さな固いものと言えば、これしかありません。
    イオナさんに大見得を切ったはいいものの、店長さんが買って下さったスマートフォンを壊してまで、彼らを助けたいかと申しますと……。
    迷っているうちに、男性たちの一人がパニックを起こしたようです。
    一人だけでも脱出しようと、自分から窓を割り、身を乗り出して、近くにある支柱にしがみ付こうとしていました。
    「何と言うことを……」
    しかし、窓が割れたのは幸いでした。その隙間から腕を差し入れて、彼らをこちらのゴンドラに引き上げる事が出来ます。
    「助けてくれ!」
    私と目が合った男性が、死に物狂いで叫びます。私が先程の不美人だとわかっているのかいないのか、そもそも手足が伸縮する人外であることは見てわかりそうなものですが、今は助かりたい一心でそれどころではないようでした。
    私は、支柱にしがみついている男性に腕を伸ばしました。しかし、あともう少しのところで手が届きません。
    槍投げや砲丸投げの選手は、普通の人よりも遠くに物を飛ばす事が出来ますが、その時の体調や風向きなどが関係して、常に思った通りの記録が出せるとは限りません。
    私たちとて同じです。人よりも手足を長く伸ばせても、何もかも自分の意思通りに、自由自在に動かせるわけではない。
    私たちの体は、思っている以上に物理的法則に縛られています。私の腕は彼らに届きそうで、届きませんでした。やはり心の奥底では、この男性たちを助けたくないという気持ちが働いているのでしょう。
    思い出したくもないけれど、忘れられない。私が、男性という名の怪物にどれだけ苦しめられて来たか。
    道を歩くだけで指差され陰口を叩かれる容姿。子供なら誰でもいいのか、登校中に遭遇した痴漢。それを友達に相談していたら男子に盗み聞きをされて、お前なんか誰も狙わないだろうと無意味な暴言を吐かれた事。せめて勉強だけでもと思い頑張って成績を上げても、それを妬んだ男子にまた苛められる。
    ある朝、机の上に置いてあった花瓶。破かれた教科書、『ブス』『ガリ勉』という落書き。先生に報告すれば、帰り道に待ち伏せされて、卑怯者、チクり魔、と石を投げられた事。
    大人に相談した事を卑怯と言われるのなら、個人を集団で攻撃する事も卑怯ではないのでしょうか。嫌いなら放っておいてくれればよいのに、わざわざ攻撃をしてくる理由がどうしてもわかりませんでした。
    店長さんだって、私を理解してくれるわけではない。とても優しいけれど、私が本当に欲しい言葉は下さらない。
    「おいっ、早く助けろよブス!殺す気かっ!」
    私が躊躇している事を感じたのか、男性は口汚く罵ってきます。
    その途端、男性の手がつるりと滑り、地面へと向かって真っ逆さまに落ちて行きました。
    友人の最期を目の当たりにし、残された男性二人が甲高い悲鳴を上げました。
    「うわあああああ!」
    「なんでだよ!なんで俺たちがこんな目に!」
    「あの女どもだよ!あの化け物が俺たちを殺そうとしてるんだ!」
    「いやだいやだ、死にたくない!母ちゃんっ!」

    なぜ、と私は思いました。

    ──私は一体、何のために、誰のためにこんな醜悪な生き物を助けようとしているの?

    伸ばした腕が、少しずつ元の位置に戻って行きます。ゴンドラにしがみついている男性たちの、絶望の表情が目に入りました。
    「ま……待ってくれ!」
    攻撃しようとせず腕を引っ込めたことで、ようやく、私が彼らを助けようとしていた事がわかったのでしょう。
    「化け物でも何でもいい、行かないでくれ、助けてくれ!」
    まるで蜘蛛の糸の犍陀多を見ているようだ、と私は思いました。他人の厚意すら無下にして、私欲ゆえに自滅して行く男性。
    その表情を見ていると、普段は胸の奥に押し込めているはずの悪意が、じわじわと私を蝕んでいくのが判りました。
    そう。男性なんて所詮、みな同じ。強い力を与えられながら、その力で他人を守る事ではなく、傷つけ殺す事しか考えられない哀れな生き物。
    そのまま死んでしまえばいい。そうして今まで苦しめて来た女性たちの恨み、その命で贖えばいい。
    私の心が闇に侵食されそうになった、その時のことでした。

    「しょーがないなぁ。もうワンチャンやるか」
    呆れたような声とともに、私の腰に、しゅるりと白い腕が巻きつきました。
    店長さんのものとは全く違う、若い女性の柔らかな腕は、しかし外見にそぐわない力で私の胴体を固定しています。
    「イオナさん……」
    来てくれたんですか、と呟く私を後ろから抱きすくめながら、彼女は「イオナちゃんマジ天使w」と自画自賛なさいました。
    「スミスミの体は攻撃に特化してないからね、手足が伸びにくいのは当然。それに生前からろくに運動してなかったっしょ?綱引きとかやったことある?」
    懐かしい言葉を聞き、私の心が徐々に現実に引き戻されて行きました。綱引き……何十年ぶりに聞く言葉でしょう。体育はいつも見学する事が多く、運動会も不参加でした。
    「ありません」
    私の否定に、イオナさんはからからと明るく笑いました。
    「だろうね。重い物を引っ張る時は、こうやって腰を安定させとかないと力でないし、ふらつくよw」
    「知りませんでした……」
    イオナさんの声と温もりを受けて自分を取り戻した私は、挫けかかっていた心を奮い立たせ、救助を再開しました。
    腕がまた、少しずつゴンドラに向かって伸びて行きます。男性の一人が、ようやく私の腕にしがみつき、その胴体にもう一人の男性が捕まります。
    ずしりと二人分の体重がかかり、よろめく私の体を、イオナさんがしっかりと支えます。
    「スミスミさぁ、親に甘やかされ過ぎじゃね?必要のない事は覚えない融通の利かない脳味噌だから、アタシの名前も忘れてたりするんだよ」
    「根に持ってらっしゃったんですか。意外と可愛らしいところがおありになる」
    「その言い方ムカつくwwwwww」
    怒った振りをしながらも、イオナさんは私を最後まで支えて下さいました。


    そうして、男性二人を、どうにか私たちのゴンドラに移動させる事が出来ました。
    まさにその瞬間、限界を迎えたゴンドラが、枝からもげる果実の如く、地面に向かって落ちて行きました。
    下の方で、強烈な破壊音と、人々の絶叫が聞こえてきました。
    子供にも安全な乗り物であるはずの観覧車が、まさか文字通りの『絶叫マシーン』になってしまうとは……。
    男性たちは、助かったことに安堵して力が抜けたのか、糸が切れたように気絶してしまいました。
    その股間からは、黄色の尿が浸み出し、床を濡らしていました。人が死に、自分たちも死にそうな目に遭ったのですから、まあ無理もありませんが。
    イオナさんは「レスキュー代」と言いながら、気を失った男性たちのズボンのポケットからお財布を抜き取っています。私は今度は何も口を挟みませんでした。
    「……さて、ウチらはこの辺でずらかるか」
    奪い取ったお財布をしっかりバッグに入れながら、イオナさんは笑ってそう言います。私もすぐに頷きました。
    「ええ」
    せっかく救助に成功したのに、このゴンドラまで落ちてしまっては意味がありません。
    手足の部分だけ液状化し、それをロープのように観覧車の支柱に巻きつけて、少しずつ地面に降りて行きました。残された人々が私たちを指差し、口々に何か叫んでいました。
    地上では、警察の方々が現場検証に来ており、ブルーシートをかけられた男性の遺体に人々が群がっていました。私たちは人目を避けて遊園地を抜け出し、暗くなった街に身を潜めました。
    「うまくいってよかったね」
    「ええ。一人は助けられず残念でしたが……」
    私に躊躇いがあったばかりに、あの男性を見殺しにしてしまう形になりました。
    今でも憎い事は確かですが、彼らにも家族がいることを考えると、後悔に胸が痛くなります。
    「過去は忘れろwそうだ、スマホ持ってるならLINEできるよね。やり方教えたげるからこまめに連絡とろーよ」
    「お断りします」
    「ケチwなんでww」
    「電話は用事がある時にかけるものです。メールだかLINEだか知りませんが、無駄な通信料は払いたくありませんから」
    「誰が金払ってると思ってんの?店長さんは私に何でも買って下さいます(ドヤァ)」
    「それでも、なるべく負担をかけないようにしたいんです」
    私が答えると、イオナさんは一瞬きょとんとした顔をし、それから珍しく、今まで見た事もないような優しい笑顔を浮かべました。
    普段は、笑っていても目が笑っていない方ですから、そんな顔が出来ることが私には驚きでした。
    「……それがわかってんなら、いいんじゃん?とりま早く仲直りしよーよ、テンチョーさんと」
    私の肩を軽く叩き離れると、闇の中にひらりと身を躍らせます。
    夜景に浮かび上がるキャラメル色の巻き毛が風に揺れて、獅子の鬣のように凛々しく、また美しく思えました。
    男性の血肉を食らう、とても恐ろしい女性のはずなのに、彼女たちのせいで私たちは立場を悪くしているのに。たまに人間らしい表情を見せたりするから、安易に憎ませてもくれません。
    「じゃあさよー。また会おーねスミスミぃ」
    去り際に連絡先を書いたメモを押し付け、イオナさんはひらひらと手を振って去っていきました。
    私はそのメモをしばらく見つめた後、そっとバッグにしまいました。
    捕食系のイオナさんと繋がっていることを知ったら、被食者である店長さんが不安になってしまいます。それでもメモを破棄しなかったのは、結局、彼女が遊園地にいた理由を聞きそびれてしまったからです。単に暇潰しのためか、私を探していたのか、あるいは他の目的があったのか、探ってみる必要があります。
    事故の原因がイオナさんだとは疑いたくありません。私などと仲良くなるためにあんな事故を演出したとしたら、それこそ暇人ですし、何の利もありません。しかし、特に理由もなく男性に対して酷いことをするのが捕食系の特性でもあり、そこが私たちにとっては悩みどころなのです。


    「……ただいま帰りました」
    三日後、私は飯尾家に戻ってきました。
    遊園地では散々な目に遭いましたが、イオナさんと別れてからは、前から行ってみたかった国立国会図書館に足を運んだり、自分のお墓をもう一度見に行ったり、山手線を一周したり、それなりに気分転換でき、楽しい休暇になりました。
    「スーちゃああああん!」
    店長さんはインターホーン越しに私の声を聞くと、奥の部屋から全速力で駆けてこられました。
    勢いよく扉を開け、私を引き寄せたかと思えば片足でバタンと扉を閉めると、そのことを咎める私に構わず、
    「良かった、約束通り三日で戻って来てくれた!心配してたんだよ!」
    と、私が人間の少女であれば圧殺されているのではないかと思わせる力で、ぎゅうぎゅうと抱きついてきました。
    いかに自分に自信がなく、他人が信用できない私でも、これほどまでに愛情を示されれば、疑うわけには参りません。しかし、愛情表現はもう少し控えめにお願いしたいものです。
    「ごめんなスーちゃん、俺が悪かった。彼方にも怒られたんだ、スーちゃんの言いたい事全然わかってないって。これからは爪を散らかさないようにする!」
    「いえ……私も言い過ぎました」
    爪の事はあくまでもきっかけの一つで、本来私が言いたかった事は、生活のあらゆる面での店長さんのだらしなさの改善要求なのですが、果たしてこの男性はそこまで理解して下さったのでしょうか。
    「そこで、俺はいい方法を考えた!」
    「はい?」
    店長さんは私を抱っこしたままリビングに連行すると、壊れ物を扱うようにソファに座らせました。
    「今日、仕事してる時に思いついたんだ。こうやって……」
    テーブルの上に置いてあった爪切りを、得意げに私に見せびらかします。
    「爪切りの刃の裏側に両面テープを張り付けておくんだよ!これで爪が散らからない!」
    「……」
    確かに言われてみれば、刃の部分の裏には、三日月のかけらがびっしりと張り付いていました。
    「切り終わったらこのテープをはがして、それからゴミ箱に丸めてポイ!」
    店長さんはそれを実践すると、これで全部解決だとばかりに「ね?」と笑いかけてきました。
    私は驚くより先に呆れてしまい、またしても二の句が継げませんでした。
    そう言えば、以前こんな内容の本を読んだ事があります。とある会社で『社内にゴミが散らかっているのを改善するにはどうしたらいいか』という問題を出したところ、女性は『自分たちで出したゴミは片付ける』『なるべくゴミは出さない』と提案したのに対し、男性は『ゴミ箱の数を増やせばいい』『業者に清掃を頼めばいい』と答える人が多かったと。
    自分たちに責任がある、何とか今手元にあるもので状況を改善できないか、と考えがちな女性に比べて、男性は自分を変えるのではなく他人を変えようとしたり、あるいは社会全体を変えようとしたり、何かしら環境を変化させることを望むのだと。
    これは男性に対する悪口ではなく、むしろその思想がいい方向に働く事が多い、だから男性には天才発明家が多いのだ、と締めくくられていました。
    前向きだと言うべきか、反省が足りない愚か者と言うべきか……。やはり彼らの考える事は、私には理解不能です。そこまでして女性のささやかな要求を無視したいのだと言う事だけは、充分すぎるほど伝わってきました。

    その後店長さんは、ネットで爪切りについて検索した結果、同じことを思いついた人の記事をお読みになったようです。
    「俺が元祖じゃなかったのか!!そうだよなー。俺が思いつくような事は、大抵他の人がとうの昔に思いついて実践してるんだよな。ぬか喜びだった……」
    そして、ふと思いついたように私の顔を見て、
    「そうだ、スーちゃんに爪を切ってもらえばいいんだ!最初からそうすればよかったんだよ!」
    とおっしゃいました。


    イオナさん、私はそろそろ、この人を見放しても許されるでしょうか。